気象予報士が参加するあるMLで、「静岡県伊東市の小学校で、運動会の練習中、熱中症で34人が搬送された」というニュースをもとに、なんで熱中症のリスクも高いのに9月に運動会をやるんだ、という趣旨の投稿がありました。
ああ、またお約束の学校批判か…学校って、みんな中途半端に知っているから叩かれやすいんだよね~(たしかに学校側にもスキが多いのもあるんだけど)と思ってスルーしていたら(もともとこのMLではずっとROMっているのですが)、こともあろうに高校の先生まで小学校批判に加勢してきました。それも学校関係者らしく高校と比較して、時間かけていることや怒鳴って指導することがあることに対しての批判。
続いて小学校の(熱中症で児童が運ばれた小学校ではありませんが)校長先生からの反論。他のさまざまな校内要因からどうしても9月にならざるを得ない説明が。そして、時間をかけて行事をすることの意義や厳しく指導することの重要性も。
両方の主張を読んで、高校と小学校にはさまれた、中学校教師の私にとって、どちらの主張がしっくりくると感じるかといえば、圧倒的に小学校の先生の論理かなと。別に私がジャッジしたからどうなるわけでもないですけどね。
そりゃ運動会一つとっても、競技はもちろんのこと、係の仕事など運営面もかなりの部分子どもに任せられる高校より、文字通り手取り足取り先生がつきっきりの小学校の方が準備に時間がかかる、そして先生に負担がかかるのは当然だし、子どもがきちんとできないことをきちんと指導するのは当然だろと。これは小学校の校長先生の主張と同じ。
ここからがオリジナル。むしろ最近は何らかの理由で指導が行き届いてない小学校(家庭もなんだろうけど)が結果的に増えてきたため、中学校が悲鳴を上げている現状があるのです。で、そうすると中学校では本来の中学校で身につけるべき指導ができないまま卒業式を迎え、そのしわ寄せは確実に高校に送られます。そうするとどうなるかは想像に難くありませんね。高校ではまさか、そんな生徒を放置したり(見捨てたり)、「中学校の指導が悪いせいだ!」と安易に片付けたりすることはいないでしょうが、生徒の質が教師にとってうれしくない方向に変わってきたことに気づき、少なからず危機感をもっているんじゃないかと思うのですが。
そんなギリギリの状況の中で、きちんと子どもたちを指導している小学校も含めて十把一絡げに小学校批判を展開するのはいかがなものかと。
…などという小学校を批判する側への違和感もあるのだけれど、それ以上に思ったのが、小学校の校長先生が、言葉には直接出さないにしろ「多くの制約の中、私は責任を持ってこのように判断してやっている」という立場からくる重み。逆に言葉に出さないからこそ、わかる人には伝わってくるのかもしれません。
責任をとらない奴ほど無責任なことを言う
当たり前と言えば当たり前なことなのですが、いろんな立場の方から学校に対するご意見を聞いてみると、つくづくそう感じます。
「そんなこというならお前がやってみろよ、オレよりうまくできるんだろうな?」という小学生のような大人げない、しかしかなり勝算のある攻撃(多くの場合、批判する側は素人なので、オレよりうまくできないことは目に見えている、それ以前に必要な資格がないためオレと同じスタートラインにさえ立てない場合も)をしたい誘惑を封じ、ご意見はご意見として承りながら、そして学校の限界を感じながらも、毅然と反論していた校長先生に、その後の行く末はともかく、かつて「コミットメント」をした日産のゴーン社長のような、責任の重みと覚悟を感じたわけです。
きっとその先生の学校はいい学校なんだろうなと思いながら。
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