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0975 首都東京の復興ものがたり~未来へ繋ぐ100年の記憶~

 日比谷公園にある千代田区立日比谷図書文化館で、令和5年度特別展 関東大震災100年「首都東京の復興ものがたり~未来へ繋ぐ100年の記憶~」をやっていたので行ってきました。
 関東大震災から100年、大きな被害からの目覚ましい復興は、昭和、平成、令和の東京につながっていきます。
 理科教育とあまり関係がなさそうなテーマなので、当初、更新がなかなかされない旧ブログで扱おうと思ったのですが、ちょっと関係するところがあったので、こちらで取り上げます。

復興小学校の教育環境

 震災の被害は当然のことながら学校にもありましたから、学校の復興というのも大切なところです。震災前後の時代は、理科に限らず教師・教科書中心の旧来の教育方法が批判され、子供主体の活動的な学習や観察・実験を推奨する「大正新教育」と呼ばれる教育運動が広がり始めました。そこで鉄筋コンクリート造りの建物になり、屋上が使えるようになって気象観測室や音質を作った学校もあったそうです。うらやましい。
 他にも汲み取り便所全盛期にいち早く水洗トイレを作ったり(これは学校の衛生環境を整えるだけでなく啓蒙的な意味もあった)、シャワーバス室とか結核予防の日光浴室とか紫外線浴室(サングラスしてました)を設置したりと、とりあえず相当金かけてるだろう(=教育を重視しているな)と感銘を受けました。

 芳林小学校の理科室。令和の今から見ればレトロに見えますが、上下黒板やおそらく2人席の机にしっかりガス栓があることなど、当時としてはかなり先進的だったのではないかと推察します。むしろ最近はカセットコンロの台頭でガスを引かない理科室もあるなんて話もちらほら。個人的にはあまり肯定的にはとらえていないのですが、それは単に私が時代の流れについていけないだけなのかもしれません。

上六小学校の温室。何かを栽培していたのでしょうか。

上六尋常小学校の理科室.

理科室の暗室に設けられた流しの水栓。暗室まであるなんて!写真の現像でもやっていたのでしょうか。そういえば初任者で赴任した公立中学校にも理科準備室の中に暗室があり、写真現像の機械が残ってました。

ついでに正面昇降口の腰壁タイルと階段折り返し部の手すり

引違ガラス窓障子(部分)細い筋の入ったガラスは、終戦後に進駐軍の指示で配給された学校専用の補修ガラスで、「銀線」という品種。

奉安庫 「教育ニ関スル勅語」と御真影を大切に保管するところ。1891年11月文部省訓令第4号によって設置義務があるんだそうだ。

山田守の東京中央電信局や聖橋の模型

 他にも建築マニアとしては山田守の東京中央電信局や聖橋の模型も推したい。

 ということで、戦後の理科教育史は、それなりにおさえていたつもりでしたが、それ以前はほとんどマークしていなかったなぁと。大正時代の標本を調査したときも当時の教育事情までは調べきれなかったなぁと。
 ちなみに今、このブログ記事を書くためにいろいろネット検索していたら、大正時代の薬用植物標本 ~津村藥用植物園の腊葉標本の発見~に関連して、早川・黒沢ら:清水東高等学校から見いだされた学校教材として販売されたさく葉標本,植物地理・分類研究 71(1): 35-45 (2023)というむちゃむちゃ俺得な論文を見つけたのでリンクを貼っとく。

 それはさておき、これを機に大正期当たりの教育についても興味がむくむくと…(その興味が続くとは言っていない)。
朝倉充彦:大正新教育における初等教育の教育方法改革,仙台白百合女子大学紀要 16, 1-12, 2012
鈴木和正:近代教育制度と大正新教育運動― 教育学 における 諸概念 の検討を中心に ―教育研究実践報告1,2017

この展示は11月26日まで。いやもちろん、普通に関東大震災からの復興を知る上でもとても良い展示です。日比谷公園に行く予定のある人は、ぜひ。

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