見学日:2021年 4月 10日 (土曜日)
明治5年に日本で初めて新橋ー横浜間に鉄道が開業したというのは、中学校の社会科で出てくるぐらいに有名な話ですが、その区間の一部が海上に建造された築堤だった、つまり海の上を通っていたことは、あまり知られていないのではないかと思います。
なぜ海の上を通っていたのか。このあたりの理由は兵部省が高輪周辺の土地が国防上必要なので譲ってもらえなかったから、という説もあるようですが、とにかく事実として本芝から高輪海岸を経て品川停車場に至る2.7kmの区間は海につくられた築堤の上を汽車が走っていました。これが高輪築堤です。
後に明治から昭和にかけて高輪築堤はもちろんのこと、芝浦・港南地区が埋め立てられました。そこに車両基地などをつくるのですが、時代の流れで車両基地も再編となり、空いたスペース、特に品川駅の北側周辺地区は、品川開発プロジェクトと称して都市計画も立てられました。
一方、2019年4月の品川駅改良工事の際に、埋め立ての時にすっかり壊されていただろうと思われていた石垣が見つかりました。そこで「もしかして、築堤残ってるの?」と2019年11月の山手線・京浜東北線の線路切替工事のあとに試掘調査したのです。結果は、ご存知の通りです。
品川開発プロジェクトでは、対象エリアを1街区~6街区に分けています。
第7橋梁があり2020年1月に現地見学会を行った(ちなみに応募したのですが落選…)3街区は、300億~400億円かけて保存されるように計画を見直すので、また見る機会があるかもしれません。
今回見学したのはその隣の4街区。信号機の跡と見られる遺構が見つかったエリアです。
ということで写真を見てみましょう。
お、やってるやってる。
山手線の新駅・高輪ゲートウエイ駅の真ん前です。
これが…高輪築堤!
北部から南部(品川方面)を望む。手前側はほぼ直線で、奥の方で左に曲がっています。
築堤の最下部から水面までは約1m。そこから3m積み上げた、ちょうどさくの右側にレールが敷かれました。明治3年に工事をしたときは単線でしたが複線化は決まっていたようで、明治9年に複線化した際には築堤が使われましたが、その後、明治32年に3線化したときは築堤では場所が足りなくなり東海道との間を埋め立ててその上に新しい線路をしきました。
ここも、かつては海だったんですね。
底には木の杭が打ち込まれています。どうもマツの木のようです。石垣手前の軟弱な地盤から砂が流れて築堤が崩れることを防ぎ、石垣に打ち付ける波を消すためのものではと考えられています。
そして4街区の中央付近に石垣がちょっと飛び出たところがあります。
信号機の跡と推定されています。よく見ると十字に設置された木製の基礎が見えます。
信号がここに置かれた理由としては、新橋からここまではずっとまっすぐだけど、ここから曲線区間になることが関係しているのではないかと考えられています。
石垣の最上部、つまり地面付近には黄色っぽい小石がありますが、これが線路に敷かれる「バラスト」です。この上に線路が敷かれていたのですね。
石垣の最下段にある細長く青白い石は伊豆青石(凝灰岩)、その上にある四角い石は伊豆産の安山岩です。また、よく見ると、石垣がずり落ちないように、伊豆青石の下には胴木と呼ばれる木の板があり、それを太い杭で押さえています。それが功を奏してか、石垣が崩れていた箇所は見つからなかったそうです。
ほとんどの箇所では水面下にあたる下の5、6段を残してより上の部分は、石垣の表面がなく、中身の裏込め(雑石・三浦半島で撮れる石らしい)が露出しています。もともと築堤建設時、張り石はお台場(途中で建設中止になった第七台場も含まれる)などからもってきたようですが、埋め立てられたときにまた、別の場所に使うために持っていかれたと考えられています。
そういえば、レールや枕木も出てきませんでした。枕木はともかく鉄は貴重だったから他に使われたのでしょう。
だとすると裏込め石が露出する中で、、信号機がのところだけ上まで完全な形で残っています。これは意図的としか思えません。(by港区教委)
日本の鉄道は当初、イギリスの技術者のエドモンド・モレルが建設を指揮していたが、日本の鉄道で使われた技術は、もちろんイギリスはじめ欧米の技術もあったものの、組み合わせることで強度を出すという日本の築城技術も採用されて、和洋折衷だったことが分かります。
今回見学した4街区ですが、JR東日本は現地保存はしないとしています。
あちこちから完全保存をとか言われており、できることならJR東日本だって自分たちのアイデンティティともいえる貴重な鉄道遺産ですからしたいでしょうが、「保存しろ」と言っている人がお金を出してくれるわけではありません。4街区はよりによって駅のまん前、あまつさえ信号機の遺構はそのど真ん中です。また、現地保存するといっても、今までは土の中だったからよかったものの、風雨にさらされれば劣化しますし、台風や地震にの影響も考えなくてはいけません。さらに見学者の安全性とかまで考えれば、まさかそのまま野ざらしにするわけにもいかず、それなりの費用がかかることを考えると、お金を出さない以上無理は言えないよな、むしろ、収益が減る可能性の高い計画見直し+追加費用の掛かるにもかかわらず、3街区だけでも残してくれてJR東、あんたは偉い!感動した!ありがとう!と言わなくてはいけない気がします。
だから今回の現地見学は歴史の一瞬に立ち会える超・貴重な機会だったんですね。申し込みの電話がつながらないのにもめげず、1時間半ぐらいかけて何度もかけ直したかいがあった…。
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