1502 「わかりやすい」ことはいいことです!
理科教育法の講義で、「わかりやすい」と言うことに関して、次のような質問をされました。
「わかりやすい」とは本当によいことなのでしょうか。大学の講義で「わかりやすく説明すると、学生自身の『自分で考える力』が育たないから、わかりにくく説明している」と言っている先生がいました。あえてわかりにくく説明するということも必要なのでしょうか。
わかりにくく授業をする先生にそう言われたら「かまわないですから、わかりやすく授業をしてください」と返してみたい衝動に駆られますが、けんかになるだろうな…。
それはともかく、暗号解読の訓練か、なんかのパズルでもない限り、わかりやすくできるのに、わかりにくく教えるのは、意味がないと考えます。
たとえば、水の分子構造を説明するのに、あの「ミッ○ーマウス」形の分子モデルを見せればいいものを、「水素原子があって、それが酸素原子とくっついていて、その酸素原子はまた別の水素とくっついている、これが水分子です。あ、それで水素原子と水素原子はまっすぐに並んでいるのではなくて、104.5度の角度で…」というわざわざ要領を得ない説明をすることに何の意味があるのでしょうか。ここでの目的は、水の分子のイメージを持たせることで、決してわかりにくい説明の読解力をつけることが目的はないはずです。
わかりやすい説明のおかげで「ミッ○ーマウス」形の水の分子構造が容易に理解できたなら、今度は例えばエタノールの分子構造でもわかりやすく説明すればいいんじゃないの。簡単なものをわかりやすく説明して余力があるならば、今度は難しい内容を「わかりやすく」説明するという方向性を持てばいいわけで、「容易な」ことをあえて「わかりにくく」することは、少なくとも理科のような具体的な内容のある学習ですることではないでしょう。
た・だ・し、「わかりにくく教える」のはナシにしても、「教えない」、あるいは教えるのをもったいぶるというのはアリかと。
教えるという行為は多かれ少なかれ学習者の外部から「これが正しい」(「答えがない」という答えを含めて)と押しつけれられる行為であります。
「あとは自分でやってみな」というのは、わかりやすい「教えていない」事例ですね。これはこれでアリだと思います。
また、ちょっと手のこんだ例ですが、コーチングとか禅問答などは、結局は学習者自身が気づき、学習者自身が答えを見つけています。コーチなどの相手は単なる等身大の学習者を映す「鏡」に過ぎません。しかしその鏡に映った像を見て、それを学習者自身が彼なりに解釈することで新たな気づきをもたらし、成長するのです。つまりここでは「わかりにくく教えている」のではなく、何も「教えて」いないのです。解釈そのものは学習者に任せているわけですから。それがかえって学習者自身に気づきをもたらすのです。
「もったいぶる」効果は、お昼のみ○も○たの番組をみればわかるかと思います。フリップの中でも特に重要なところをわざと隠して、ゆっくりとそれをはがしていく。それで「なんだろう」と視聴者の興味を(学習者のモチベーションを)高めていく基本的なテクニックです。
「教えない」ことと「わかりにくい」ことはまったく別なんですよ。
それはともかく、わかりやすく教えることは良いことです。だってそう考えた方が、「わかりやすい」じゃないですか。
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