その気はないけど教職課程を履修したら、教育実習で教職も悪くないと思った。しかし、実習ではしょせん「お客様」だし、この気持ちも一時の気の迷いかもしれない、という冷静な判断も心のどこかであった。ということで、狙ったわけでなく結果的に、ですが、大学院行きながら教員のお試しということで非常勤講師をしてみたわけだ。
で、M1(修士1年)では、まだこの年は週2までペースを落としたが塾講バイトも続けていたものの、メインは大学院や非常勤講師なので、夏までは新しい生活に追われていた。で、ちょっと慣れてきた秋ごろにある私立校の化学の教員公募のチラシが舞い込んできた。男性、25歳まで、大卒または修士というところまでは良かったものの、最後にキリスト教者(要・牧師の推薦書)というところで撃沈。そのころから教職を意識するようになった。
W中学・高校で、職員室の座席が向かいだった、日本史の講師のH先生には大変懇意にしていただけたのもラッキーだった。その先生も教職を目指している院生(博士課程?)で、教職関係の情報をいろいろ教えてもらった。授業の後、W中学・高校のすぐ近くにあるH先生の大学の就職課に連れて行ってもらい、掲示板で情報を探していいところが見つかったら応募するといい、というアドバイスを伝授してくれた。理科大ならともかく、東大にはそのような情報源がないので、授業の後にちょくちょく見に行った。
とはいえ、当時、教師になるのは無茶苦茶倍率が高かった。今の教員不足が何なんだと思うくらいに。なので、H先生からの民間企業なども回っておくといい、というアドバイスをいただいた。
私の場合、教職の可能性もあり、民間を断る可能性性もなきにしもあらずということで、決まったら断れない大学の研究室のつてを頼るわけにはいかなかった。なので、どっさり送られてくる就活の資料から、適当にいくつかの会社に葉書を送ったり、応募したりした。
で、実はある会社から内定をいただいていた。メガバンクレベルの金融機関!…ならよかったんだけど、そのIT系の子会社である。こういうとナンだけど、東大の大学院の新卒カードを使って行くような会社ではない。化学とも直接関係がないし。向こうから見たら、学歴と、当時珍しかったオンライン情報処理技術者試験(現在のネットワークスペシャリスト試験)の資格をもっていたことから、なんでうちを応募したんだ、これはおさえるしかないだろう、と速攻で内定だしたんだと思う。
そして、東京都の教員採用試験では、「補欠」という採用されるかされないかが分からない宙ぶらりんな結果となった。そして私立の採用の情報も見てはいるが、化学で専任となると、なかなか数は少ない。
そうなると、翌年の4月から行き場がないということはないものの、民間企業を押さえつつ、教職を狙うということになる。
今思えば、そもそも教職第一志望だったっけ?というところもあるけど、非常勤講師で授業やるのが楽しい、仕事としてやっていけそうだという目途が立ったこと、採用倍率の高さから、もし採用されたら行かないのはもったいない、という気持ちがあり、実際問題として教職第一志望となっていた。
一方、教員になれるという保証はその時点ではどこにもなく、内定先の会社にそのまま就職する可能性も小さくなかった。で、自分の性格からそこに実際に就職すれば、多少不満があってもそこに骨をうずめかねない可能性も高いし(が、今調べたらその会社は後に別の会社の完全子会社化して吸収されてしまったようだ)、おそらく教員を再チャレンジすることはなかっただろう。
本来ならばもっと身を入れて就職活動をしてもう少しいきたい(教職よりもいきたい)会社を見つければよかったのだけども。
そしてもう一つの選択肢が浮上する。大学院は終わったので、非常勤講師を続けて翌々年の専任採用を目指すという展開。実際、都立K高校からは週9時間の授業を打診されている。ただし、1年我慢すれば採用されるというわけではなく、何年も学校を渡り鳥のようにうつっている非常勤講師もいる。これが長く続くと専任としては逆に採用しにくくなりそうだ。望ましい選択肢ではないとはわかっているものの…。
進路選択の悩みが修論を書き上げる頃までずっと続いた。
修論が大詰めのとき、何もやる気がしない。目の前の論文、将来の問題。何も見えない、何も考えたくない、と感じたのをよく覚えている。
4月から、会社に入るか、もう一年非常勤講師をするか。現在の不満か、将来の不安か。今夜も泊まる。胃は痛いままである。
3月頭、W中学で、非常勤講師としての最後の授業を終え、塾から含めると6年の授業もついに終了。今度教壇に立つことはあるのだろうか。ないだろうな…と思いながら、内定先とも連絡を取り続けていた。どうも、シンクタンクに出向してアセットリスクマネジメントなるものを勉強しながら研究していくことになるらしいときいていた。
ところが、春分の日も過ぎた3月22日(水)、内定先から内定式で代表挨拶を依頼されて快諾したその数時間後に、江東区教育委員会から、中学校の教員採用の面接が明日の午後3時から区役所で行うという突然の電話がかかってきた。そのときは自分は家におらず、夜遅く帰ってから知ったので、翌日電話をかけてたら「明日の3時に区役所にある教育委員会指導室へ、写真貼付の履歴書と合格通知書をもっていけ」となり、24日(金)面接をして、その夕方に採用の電話が。そして27日(月)書類を取りに行き、29日(水)大学院の学位授与式を欠席して採用の手続きをしたわけだ。1週間前には予想もつかなかった急転直下の展開である。
そうすると大変なのが内定辞退。当たりまえだけど内定先にはここへきてのまさかの辞退に衝撃が走ったようで、かなりひきとめる説得をされた。こちらも泣きながらお詫びしましたけど、このえらく高飛車な教員の採用システム、もう少し何とかならんのか、と思ったのは事実です。(今は教師のなり手不足でかなり改善されているのでしょうが。)
もっとも、自分が教員になれたのは一つの戦略が功を奏したのかもしれない。前提として教員採用試験の倍率は、覚えている範囲で、社会(とくに政経が高倍率)≧国語>>理科≒数学>>英語>技術、そして高校>中学、理科でいえば高校生物≒高校化学>高校物理>>中学理科だった。
で、中学より高校が人気なのは、給料がいいとか、より専門を教えられるとかというところでしょう。そこで本当は私も高校に行きたかったのだが、最初から高校は捨てて中学理科にフォーカスした。そうすると、高校に比べると倍率が低いこともあるが、それ以上に自分に有利な点があった。中学理科なら、物理・化学・生物・地学と幅広い知識が必要になってくる。しかし理科の先生を目指していても、自分の専門以外は苦手だったりする人も多い。それに対し自分は塾講で中学受験の理科を極めていたのでその点では非常に有利だった。だから今でも、理科教育法で学生には「物化生地どこでも教えられるように、苦手な領域がある人は今のうちに克服しておきなさい」と指導している。
それはともかく当時の自分は、自分より優秀な、あるいは「ああこの人が先生になったらすごくいい先生になるだろうな」と思うような人が、一人、また一人と教職をあきらめていくのを目の当たりにして、なんというか大変な理不尽さを当時感じていた。
H先生も結局は教員にならず、大学の助手(今だと助教)になると、私がM2になるときにW中学・高等学校を退職してしまった。
そして、こともあろうに私が生き残った、というか専任の教員になれてしまったことに、安堵よりも「(本当に自分で)いいのか?採用システム間違ってないか?」「(H先生のような志半ばでやめていった先生たちに)申し訳ない」「(教員になれなかった先生たちの分まで)がんばろう」という気持ちが大きかったことを覚えています。
そうして、東京都の教員としてのキャリアを積み始めたのです。
ひとまず教員になるまでの話ということで、本シリーズはここまでとしたいと思います。
ここから先の話をしようとすると、登場人物が特定されやすく、しかも現役の先生もいるし、うっかり守秘義務にひっかかる話をしてしまうといけないので…
ですが最後に、刑事コロンボ「殺しの序曲」を引用しておきたいと思います。
世の中ってのは不思議ですねえ。あたしはどこへ行っても秀才にばかり出会ってね。学校にも頭のいい子は大勢いたし、軍隊に初めて入った時にも、おっそろしく頭のいいのがいましたよ。ああいうのが大勢いちゃ、刑事になるのも容易じゃない、と思ったもんです。あたし考えました。連中よりせっせと働いて、もっと時間かけて本を読んで、注意深くやれば、ものになるんじゃないかってね。なりましたよ。あたしはこの仕事が心底好きなんです。
刑事コロンボ「殺しの序曲」
はい、私も、なりましたよ。でもコロンボとは一つ大きな違いがあります。最後の一言は当時も今も言えないなと。(教職を目指す学生の前でポジショントークするときを除く)


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