学部1年の7月から修士1年の2月まで、学習塾のアルバイトをしていました。これが私の教師としての原点ともいえますし、算数・数学やときには英語、国語と、理科以外の教科の授業をした珍しい時期になります。
黎明期
大学に入って少し落ち着いたところで、アルバイトを始めようと思いました。高校時代は低賃金で日配食品の仕分けや皿洗いのバイトをしていたりしましたが、さすがにもう少し時給のいいものをと思い、フロムエーで見つけたのが大手の学習塾。近すぎず(近いと生徒に家バレするリスクあって面倒)遠すぎず、自宅から電車で2駅の校舎に応募したわけです。
で、6月に面接をしたのですが、面接したU教室長も同じ理科大卒だったこと、ちょうど理系の講師が2人ほど6月いっぱいで辞めること、そして私が中学受験を経験していたことから無事採用となりました。
で、新人の私が担当したのは、小6の、それも日曜日に四谷大塚でテストを受けるような受験生対象の理科のクラス。加えて夏期講習からは四谷大塚の準会員~四谷に入れないけど受験したいという生徒相手に算数まで。
あとできいたのですが、これは面接をしたU室長と、アルバイトではありながら私が担当することになった小6のクラスの国語と社会を担当しているO先生が、私をなんとかこの塾にはめようというねらいがあったのです。私はその計画にまんまとはめられたわけです。
最初は極度の人見知りで生徒の方に顔を向けられなかったし、授業前には丁寧に授業の内容を理解して準備をしました。夏期講習の間だけ担当した中3の理科のクラスには、志望校が都立のせいぜい中堅校の生徒相手に小6の中学受験生相手のようなハイレベルな授業をやってしまったがために、授業後に生徒にボロクソ文句を言われたという大失敗をしました。
成長期
しかし慣れとは恐ろしいものです。すぐに予習なんかしなくなりました。算数の授業では、教室ではじめて今日の授業で解説する問題を見て(ただし生徒にはちゃんと準備してきたように見せかけながら)、問題で書いていることを黒板に図解して整理して、その場で解き方を解説していきます。
さすがに理科はうろ覚えだったり多少不安なところを授業直前に確認してから授業に臨みましたが、それでも授業ではいちいちテキストを見ずポイントを解説したり問題を解いたりしていました。
なお、このときの経験が、物理・化学・生物・地学どこからでもかかってきなさいと言えるレベルの幅広い知識をもつことにつながり、それが高倍率だった当時の教員採用試験をパスした大きな要因になっていると思います。
こんなことができたのは中学受験の経験、とくに全盛期のTAPで今思えばすんげー先生の授業を受けていたことがかなり影響していたと思っています。
ちょうど私が大学入試に合格して理科大に進学して、この塾に入る頃、TAPでは組織内での対立が起こり、かつて私が教わった先生方がTAPを辞め、あのSAPIXを設立しています。
成熟期
2年目・3年目は、それまでU室長の担当していた小6の四谷の正会員クラスの算数も担当するようになります。それでも相変わらず予習はしませんでしたが、代わりに *入試問題を徹底的に読み込んだため、生徒が希望しそうな学校の算数や理科の入試問題なら、一見しただけでその問題の解答はもちろん、「昭和(平成)○年の○○中学の○番だね」と出典まで答えられるようになりました。当然、自分の担当するクラス科目の成績アップや合格実績も出るようになりました。このあたりが最盛期といっていいでしょう。
*1~2年目はO先生や仲のいいバイト講師(大学生)が何人かで塾に泊まり、それこそサークルのノリで、入試問題解きまくり、誰が一番か競争!などという無謀なこともしていました。これはU室長やO先生らの私を塾にはめようとした作戦の一環でもありました。
ちなみに大学ではインカレの化学サークルに一瞬入っていたのですが、この塾のアルバイトが忙しくなり、夏休みにはもうフェードアウトしていました。
しかしだんだんと自分の中でいろいろモヤることがでてきました。
①あれだけ熱を入れていた生徒との関係が受験が終わるとともにぷっつり切れて終わる。寂しいとかいうわけじゃないけど、あの落差はなんなんだと。ただ3年目は慣れたのか、何も感じなくなりましたが。
現在、自分がいわゆる熱血教師とは対極な、表面的には「面白い先生」「優しい先生」みたいでも、根っこでは「まああなたの人生だし(そこまで私が関わる必要がない)」とビジネスライクというかドライというか現実的というか意外に冷たいスタンスなのは、このとき感じた落差に慣れてしまったことが原点なんじゃないかと思うことがあります。それで給料が上がったり仕事が楽になったりするわけじゃないというのもありますが。
②その塾は中学部もあったのですが、上位クラス以外はそこまでレベルが高くないので、自分の担当していた小6に比べれは恐ろしくゆるい、それ以上に講師の先生(自分と同じ大学生のアルバイト)と中学生の心理的な距離が近く、なれ合いが楽しそうに見えました。夏期講習や冬期講習で中学部の授業に入ることがあったのですが(数学、理科がメインですが、人手が足りないと英語や国語もやってました…)、少なくとも上位のクラスは楽しい。(下の方はやる気もなく私も生徒もひたすらストレスでしたが)
③それでも自分が小6のクラスがはまり役だというのはわかっていましたし、授業の評判も良かったし、生徒の成績や合格実績を出すようになっていたのはデータから明らかでした(自慢っぽくてすみません)。ただそれゆえに3年目の後半あたり(ちょうどU室長やO先生の影が薄くなり始めたころです)から、周囲との軋轢が生じて、陰では相当悪く言われていたようです。もちろん私もそれを感じないわけはなく、職員室ではなんかギスギスして居心地は良くなかったなと。
もっとも、今思えば自分も、自分だけの成果ではないのに、予備校のカリスマ講師のように調子に乗って天狗になりすぎたために、他の先生から見て大変イヤな奴になっていたな…と反省しています。
④あと単純に今でいうブラック職場だったというのはあります。講習会の授業が朝から昼の3時半まででそこで帰れるのに、そのあと無給で10時まで生徒の面倒を見ることになったのは冷静に考えると腹が立つけど、サークルのノリということでギリギリ許そう。でも、「アルバイトには有給休暇がない」という説明をしたり、授業している時間は時給が高いが、授業開始の30分前にはは来させ、また、授業後はテストの採点や各種記録、休んだ生徒の家庭への電話、打ち合わせなどで1~2時間以上拘束させているのに、その分については最低賃金に近い時間給が1時間だけつくというのは、労働基準法を知らない大学生をなめていたとしか言いようがありません。
衰退期
そんななか、自分が大学3年の終わりに、そんな私にいろいろ良くしていただいたO先生は国税庁に就職、そしてU室長が他校に行き、どこかから後任のI室長が着任。I室長は私をそれまで週4で入っていた小6のクラスから下ろす。で、中2の数学を担当させる。まあ、4年になれば卒研で研究室に入るし、教育実習に大学院試験もあるので週4で続けられるのかという問題はあったものの、当時はショックでしたしやる気をなくしましたね。とはいえこれまたすぐに「同じ時給なら受験学年でないほうが楽だな。」と悟ったあげく、6月から9月にかけて教育実習→教員採用試験準備→大学院試準備で長期の休みを取ってしまう(夏期講習は最初の1週間だけ6年生の理科を担当してさしあげましたけど)のは前向きと言っていいんでしょうか?
実際、その年の合格実績は下がったし。これも今思えば、I室長としては私も大学を卒業すれば塾をやめるだろうから、それを見越して6年生を担当できる後任の目途をつけておこうという判断があったのかもしれません。しかし、そのときの私にはそれが全く見えませんでした。
大学院に行き1年だけこの塾を続けたのですが、最後の年に担当したのは週2回、中学生の数学。それこそドライに、ビジネスライクに、ひっそり寂しく最後の授業を終えたのでした。
こうして今振り返ってみると、辞めたときにも思ったですが、惰性で5年も続けないで、U室長やO先生とともに3年でスパッと辞める(他のバイトに移る)のが正解だったかなと。引き際を誤って残り続けることは、「ピーク・エンドの法則」なんてしゃらくさいもののを持ち出すまでもなく、どこか寂しいといったらいいのか、惨めといったらいいのか、とにかく自分自身にも、居座られた周囲の人々にも、マイナスにしかならないような気がします。
だから、過去の職場に足しげく通う人、通おうかと思っている人をみると、自分の失敗を思い出し、「引き際は誤らないほうがいいよ」っていらないアドバイスをついついしてしまうのです。
ドライに、ビジネスライクにほおっておけばいいのにね。


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