国史跡である陸軍板橋製造所跡の特別公開へ聖地巡礼してきました。
板橋火薬製造所は、明治9年(1876)、現在の東京都板橋区にある加賀藩下屋敷の跡地に設置された官営工場です。明治政府が初めて設置した近代的な火薬製造所であり、昭和 20 年(1945)まで稼働していました。
戦後は火薬製造所は廃止され、その跡地には研究所や学校、工場などが入居していきました。
そして平成29年(2017)、歴史的建造物や遺構が残っていた加賀公園、旧野口研究所や旧理化学研究所の敷地が、国史跡に指定されました。
加賀公園は自由に入れますが、旧野口研究所や旧理化学研究所の敷地は普段は入れないので、今回の特別公開は貴重な機会でした。次入れるときは、きれいに「整備」された後になりそうなので…。
まずは石神井川の南、旧野口研究所の敷地を見てみましょう。
ちなみにこれ以降の解説は、史跡陸軍板橋火薬製造所跡保存活用計画・整備基本計画などの板橋区のサイトで公開されている資料からパク引用させていただいております。いろいろ歴史が分かりじっくり読んでみたい資料です。
弾道管
・ 詳しい設置年代は不明だが、 昭和 18 年 「東京第二陸軍造兵廠本部及板橋製造所構内図」 ( 加賀五四自治会 ( 肥田一穂氏寄贈 ) 文書 ) によれば、 № 270 に連結する形で弾道管と思われる構造物が表記
されており、 これが史料上の初出例である。
・ 戦前においては、 西端は燃焼実験室北東隅の部屋に連結し、 東端はコンクリート構造物の射垜しゃだに連結していたものと考えられるが、 現在は燃焼実験室とは切断され、 射垜部分は除去されていることがわかっている。
・ 現在は燃焼実験室の北東部分から加賀公園の方向まで、 30.5m の長さで現存している。
・ 構造は、 管とそれを支える台形および角型橋脚 (12 ヶ所 ) からなる。
・ 昭和 42 年に撮影された航空写真によれば、 中央部分の切断は確認できない。 また燃焼
実験室と連続しているように見える。
・昭和 46 年以降の状況を示していると考えられる「財団法人野口研究所配置図」によれば、
燃焼実験室との連結部分と中央部分が切断除去されている状態が示されている。
・ 管はコンクリートヒューム管であり、 内部に 「ACRK 27 吋 722」 の銘を持つ既製品と
えられる。管は端部分のみ 2 層構となっており、外側は鉄線をセメント塗り固めた構造を持つ。
・ 橋脚は、 煉瓦組みの上にコンクリートを塗り固める構造になる。
・ 橋脚には側部に電線用碍子が上下に 2 つ設置している。
・ 管と橋脚は鉄製バンドをボルトで固定している。
・ セメントと鉄線からなる管の外側は、 一部破損しており、 内部の鉄線が剥き出しになる部
分がある。
試験室 (No.552)
・弾道管の南側、燃焼実験室の東側に位置し、試験室(№672)の東隣に設置されている。
・外壁にはペンキと思われる塗料で「552」と表記されている。
・外壁はトップコートもしくはモルタルが塗装されており、亀裂や割れがみられる。
・形状は№672 と異なり方形で平屋根、東側に庇と出入口がある(扉は戦後の改変)。
・北側壁と南側壁にそれぞれ窓があり、庇の撤去痕がある。東側壁には通気口と思しき小型で正方形の開口部がある。
試験室(No.672)
・弾道管の南側、燃焼実験室の東側に位置し、試験室 ( № 552) の西隣に設置されている。
・ 建物番号の№ 672 は、 戦後に振り付けられた可能性がある。 なお昭和 22 年 4 月の史
料によれば、 「210」 と付番されている。
・ 外壁はトップコートもしくはモルタルが塗装されており、 亀裂や割れがみられる。
・ 外壁にはペンキと思われる塗料で 「672」 と表記されている。
燃焼実験室
・ 建物の建築年は不明だが、 昭和 18 年以降と考えられる。
・ 構造は鉄筋コンクリート造 2 階建。
・ 外観の意匠は、 装飾を排除したモダニズム建築の流れに位置づけられるが、 装飾の必要がなかったとも考えられる。
・現在の耐震調査でも補強の必要はないほど、強固な造りとなっている。
・ 外壁部分に残っている 2 ヶ所の庇から、 当初の出入口の存在を想定することができる。特に北側壁面に残る庇に当たる部分は、 内部にはトイレに設置されているが、 当初は出入口があったものと考えられる。
・野口研究所時代には、主に研究棟として利用されていた。
・ 一階東端の 「119P1 実験室」 の外壁部分には、 27 ㎝四方の窓の痕跡が残っており、弾道管と連結していたと推測できる。
・残存する室名札によれば、 各部屋の室名は、 以下の通り。 一階は 「細胞培養室」、 「112
組み換え DNA 実験室・生体材料実験室」、「113 低温実験室」、「114 生化学実験室」「115
試料保管室」、「P2 実験室」、「117 分光分析室」、トイレ、物置、「118 共通機器室」、「119P1
実験室」、二階は 「121 研究管理室・常務理事室」、「122 図書室」、「123 糖タンパク室」、
「124」 ( 室名不明 )、 「125」 ( 旧記念室 ) か、 「127 書庫」、 「128」 ( 室名不明 ) となっ
ている。
・ 一階、 二階ともに東西に中廊下が走り、 南北に部屋が配置されている。 2 階東端の 128
室も中廊下だった可能性がある。
階段の手すりは人造石研ぎ出し仕上げ。
展示コーナー(P2実験室)
P2実験室には展示物がありました。
U字溝
旧野口研究所より陶製で蓋とセツトで出土した電気ケーブル等を埋設する際に利用した埋設物。刻印には、実用新案登録番号のほか、INA CRAY WORKS とあり、愛知県常滑市の伊奈製陶株式会社 (昭和17年(1942)創業、後のINAX、現在のLIXIL) の製品であることが分かる。刻印の下部にTOKONABE AICHIくとこなぺあいち>とあり、くとこなめ>ではかい。これは、地名について論争があった際の名残りと考えられる。
赤煉瓦と白煉瓦
鍰レンガ
コンクリート煉瓦と敷瓦
擁壁
・ 鉱滓煉瓦壁とコンクリート壁が接合している。
・ 構造は屋根、 壁、 土台部分からなる。
・ 軽便鉄道の軌道と北側の試験室や弾道管等の試験施設との間を隔てる機能だったものと
考えられる。
・ 鉱滓煉瓦壁が 4 スパン、 コンクリート壁が 1 スパン、 合計 5 スパンが現存する。
・ 壁面は、 鉱滓煉瓦の目地部分や、 コンクリート壁との取り次ぎ部分に亀裂がみられる。 土
台部のみ現存する部分は、 鉱滓煉瓦の崩れが顕著である。 また植物の植生も確認できる。
保存状態は極めて悪い。
・また土台部分のみが、 西方向の燃焼実験室沿いまで残る。
・ 現存する西方向の土台から、 燃焼実験室沿いまで擁壁が残っていたものと推測できるが、昭和 46 年の段階では、 既に現存する部分で切断されていることがわかる。 この切断部分には階段が掛けられていたことから、 階段の設置と同時期に擁壁が設置されたものと考えられる。
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