2109 隙自語(7) 講師びんびん物語

それは私学適性から始まった

 公立は自治体単位でまとめて教員採用試験をするのに対し、私立は各校で教員を採用するわけですが、新設校でなければ基本的に誰かが辞めた時に後任を探す、ということになります。中学や高校だと教科の縛りがありますし、特に理科は、たとえば生物が専門の先生に難関大学を目指す理系クラスで生物ではなく物理を教えるというのは一般的に無理がありますので、物理、化学、生物、地学と科目別に募集・採用されることが通常です。(中学だと理科を第1分野と第2分野で分けて、先生は物理・化学または生物・地学の2領域を担当することはありますが)
 なので、化学の先生を専任で採用するというと、当時は教員採用の倍率が高いことに加え、一つの学校から見ると何年(何十年)に一度、みたいなことになりますので、一人採用するだけなのに応募が何十人もきて、選考する学校側の負担も大きくなり、効率が悪いです。非常勤講師なら、年度単位の契約、つまり大外れでも1年我慢すれば首が切れるので、もう少し採用をサクっとできますが、逆にこちらはほぼ毎年募集がありますし、大々的に公募をするのも地味に面倒です。
 私立学校が、専任にしろ非常勤講師にしろ先生を募集しようとしたときに、教科・科目ごとの教員志望者が担当教科の能力とともにリスト化されていたら無茶苦茶ありがたいじゃありませんか。
 そこで、教員志望者に私学適性試験を受験させ、採用希望者の一覧をテストの結果とともに作るわけです。教員志望者からみれば、リストに載ればたくさんの私学に名前(と成績)が知れ渡るので、声がかかるチャンスとなります。
 実際に、学部4年で私学適性を受けて、年末ごろから年度始まったあとまで、10校くらいから主に電話で連絡をいただきました。ほとんど非常勤でしたが。郵便で専任公募の案内がおくられてきたのもあります。
 ちなみにそこに応募したら書類で断られたのですが、不採用の手紙の最後に「神のご加護がありますように」みたいな文でしめられていました。さすがキリスト教系の私学だと感心した記憶があります。ちなみに当時は「お祈りメール」という言葉はありませんでした。
 で、電話では「来年は大学院に進学しますので…」と話したら、多くの学校は「あ、では難しいですね」みたいにして切ったのですが、ある学校だけは「それなら非常勤講師ならできますね」と話をつなげてきました。で、その学校には大学院の2年間、非常勤講師としてお世話になったわけです…。

私立W中学・高等学校の場合

 私立W中学・高等学校。中高一貫校の進学校ではよくある、中2で中学校の内容を終わらせ、中3で高校の内容に入り、高校2年で教科書を終わらせる、というバリバリの進学校。ということで中学で英語が週6時間、数学が週5時間、国語・理科・社会も週4~5時間とかなり手厚い時間割。その分土曜も午前中4時間毎週授業がありました。(当時公立では月2回土曜日が休みになっていた)
 てことで、中学入試のレベルも高く、少なくとも中学受験当時にこの学校受けても合格可能性はかなり低かったはず。

 1年目は中学2年の物理・化学を週3時間×3クラス。この学校では1年生のうちに物理・化学については、当時の指導要領でいうと本来は2年生でやるはずの「化学変化と原子、分子」まで終わっていたので、残りの「電流」「化学変化とイオン」「運動とエネルギー」を全部終わらせるのがミッション。とはいえ、週3時間で生徒実験は助手さんもいたのできちんと実験できましたが、それでも3学期の最後の方で時間が余り、コンピューター室で表計算ソフト「ロータス1-2-3」で、1か所数字を変えると自動的にそれをもとに計算している部分も変わる、すげー!みたいなことを生徒に見せていました。

 2年目は中学3年の生物を週2時間×6クラス。中2で中学校の内容が終わってしまったため、中3のクラスでは高校の「生物ⅠB」の教科書を使います。細胞の話や、発生、遺伝などのところをやりました。が、高校では生物は理科Ⅰレベルのところしかやっていないので、特に発生のところがつらかったです。事前に教科書の内容を覚えまくって、さもずっと昔から知っていたかのように授業したつもりでしたが、時々ぼろが出てしまいました…。

 生徒たちは能力は低くないのに、人懐っこいところもあって、良い関係を築きながら、大変楽しく授業をやらせてもらいました。当時大流行していた「少年ジャンプ」を没収したこともありましたが。
 ちなみに以前バイトしていた塾で教えた生徒が2名ほど、この学校に進学し、また教えることになりました…。

 先生方とも良い関係を築けました。職員室では学年ごとにブロックが分かれ、学年の担任の先生の横にその学年メインの講師の席があり、学年団の先生、そして講師の先生同士とも親しくさせていただきました。社会の先生と土曜の午後に弁当を食べて採用試験の情報を交換したり、英語と国語の先生と日光へ旅行したことなど、今思うと面白い経験でした。

 最後、3学期の終業式の午後に、学校挙げての送別会がありました。自分は中2→中3のひと学年しかもっていなかったため、学校の中でもごく一部の人しか接触がなかったので、この時始めてみる人も多かったです。逆に向こうも私の存在を知らなかったはずです。そんな中で学校の偉い人と一緒に上座に上げられた20代前半の若造は、ここにいていいのかという居心地の悪さに、よく一緒にいる講師の先生に目でSOSを送っていました…。ちなみにその日、あの地下鉄サリン事件があり、理科準備室のテレビでニュースを見ていたのを覚えています。

 そうだ、これも残しておこう。
 一点、すごく何気ないことなのですが、自分の教師としてのスタンスに大きく影響を与えたエピソードがあります。
 3年生の3学期の期末試験の試験監督をしていた時のことです。試験中に机間を回っていたら、教室の後ろにあるごみ箱に、地学の学習のまとめが一生懸命書かれた(ところどころチェックペンで赤く引かれていました)ルーズリーフの束が、捨てられていました。
 それだけ、ただそれだけの取るに足らないことです。別にその生徒が悪いとかとも思いません。ちゃんとごみ箱に捨てて偉いね。
 ただ、そこに塾講時代に感じた、あれだけ熱を入れていた生徒との関係が受験が終わるとともにぷっつり切れて終わるということに対するモヤモヤが重なり、自分のやっていることは何なんだろう、自分としてはかなり頑張ったつもりだったけど、その生徒にとっては、テストが終われば捨てられてしまう程度のことなのか、と思うと、ちょっといろいろ考えたくなってしまいます。
 一切れのパンの役割は、食べられてその人の何日かの栄養になる、それだけ。いちいち○年○月○日の朝食に食べたパンの味なんか、覚えていられません。生徒にとって自分の役割もその程度だったのか。SNSで「いいね!」をもらいたいという承認欲求と根っこは同じなのかもしれませんが、生徒の中に自分の授業で影響を与えたことでもう少し長く自分の痕跡を残したいな、と思いました。

都立K高等学校の場合

 都立K高校は教育実習でもお世話になりましたが、その時の経験が買われて、M2のときに非常勤講師をやらせていただきました。
 火曜と木曜の午後に、3年生の化学。週4時間。1クラス、週4時間で有機化学を通年でやります。で、そのクラスというのが、2年前の学部4年で教育実習を担当したクラス。なかなかの運命の再開です。
授業も進学校ではないこともあり(ほとんどの生徒が就職する)、ゆっくり進めることができましたし、実験もかなりの回数やることができました。エステルの実験でバナナなどフルーツのにおいがするはずだったのが、ぶっ飛んだ悪臭にさいなまれたのもいい思い出です…。
 M2のときは、W中学が火木土がいずれも午前中いっぱいやっていました。なので、午前中にW中で授業し、そこから昼休みの間にK高校へ徒歩で移動して授業していました。その後に大学院へ行くわけですが、特に火曜は研究室に直行するのではなく、教育学部で博物館学・博物館学特別演習の講義を受け、夕方5時過ぎに研究室に行くというムチャ振りでした。毎週ではないとはいえ、大学院舐めてますね。
 W中学にしろ、K高校にしろ、授業の準備は大学院の研究より力入れてやってたし。

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