土器にドキドキ、古墳にコーフン、などと界隈では言われていますが、そんなフレーズを作れないのが遺跡です。遺跡に移籍!とか意味が分かりませんし。
年に一度、11月3日文化の日に、都立城北中央公園で「古代フェスティバル」として、園内にある栗原遺跡と茂呂遺跡の一般公開があります。存在を知ったのは何年も前からなのですが、11月の文化財ウイークは、他にも行きたいところがあり、またこんなときに土曜日出勤が重なったりするので、文化の日やその前後の土日は予定の争奪戦で、ようやく今年栗原・茂呂遺跡に行けました…。
年によって多少の違いはありますが、今年は午前中は栗原遺跡を20分×5回の予約制で、午後には茂呂遺跡をその場で受け付けて10人ぐらいたまったらツアーを組んで、それぞれ解説を聴きながら見学するパターンです。
最初、2つの遺跡でこのやり方の違いはなんなんだ?と思ったのですが、栗原遺跡は練馬区、茂呂遺跡は板橋区だから、学芸面ではそれぞれの区が、そしてイベントの全体の運営としては、城北中央公園つまり東京都公園協会がやっていた、とにらんでいたのですが、実際に見てみたら栗原遺跡が茅吹きの家屋を柵で囲んだ比較的狭いエリアだったのに対し、茂呂遺跡は高低差のある広めのエリアだけれども、知らない人が見たらただイチョウの木がたくさん植えられているだけにしかみえないという、それぞれの遺跡の違いもあるなと感じました。ってつい中の人目線で見てしまいます…。
栗原遺跡
栗原遺跡の詳しい説明はリンク先や下の解説版をどうぞ。
この竪穴式住居を柵の中からじっくり見られます!

中も見ました。
奥の方にかまどが見えます(復元したもの)。

茂呂遺跡
そして茂呂遺跡。

かつて縄文時代以前に日本に人間はいなかったと考えられていましたが、昭和26年に群馬県で関東ローム層から石器を発見、さらに1949年に明治大学が発掘調査をすると、土器を伴わない古い石器群発見されて、「縄文時代の前にも日本に人がいたじゃん」ということになったわけです。この場所こそが群馬県みどり市の岩宿遺跡です。
関東ローム層は第四紀更新世(約1万~40万年前)に堆積した火山灰です。日本でいう旧石器時代は約4万年前ごろに人類が日本列島にやってきてから、約1万年前に磨製石器を使う縄文時代が始まるまでの間ですから、ちょうど関東ローム層が堆積した時代に含まれます。なので、関東ローム層から石器が出てきたら、その石器は旧石器時代のもの、ということになるのです。
一方、ここでも昭和26年に中学生が縄文式土器を探していたら、切り通しの断面にあったやはり関東ローム層から礫群と黒曜石の石器を見つけ、明治大学と武蔵野郷土館が共同で発掘作業をしてまたいろいろみつかって「ここもか!」となって茂呂遺跡として今日につながるわけですが、2位じゃダメなようで、岩宿遺跡が国の史跡に指定されたのに対し、茂呂遺跡は東京都指定史跡にとどまっています。
いや、比べるものじゃないという建前はわかってますよ。
ここが最初に発見されて発掘作業をしたA地点。ただし、切通しの断面は道路になっているのでなくなっています。

それからここが後年に調査したC地点。

住居になったB地点を含めた位置関係
正直それっぽいものがないので解説がないと、ただのイチョウの木が植えてある公園か、ということになりかねません。
しかし、茂呂遺跡の(岩宿遺跡にない)特色として黒曜石でできたナイフ形石器がある。これがまたよく切れるんだ…。しかし、東京などの南関東で黒曜石なんかあったっけ?と疑問が。どうやらこの黒曜石は長野の霧ヶ峰産と考えられ、つまりそこからもってきたと考えられているのだそうだ。狩猟採集でそこまで徒歩で遠出していたと考えるとすごい話だ。

ほかにもこんなのがありますよっと。



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