このシリーズを始めたとき、何回分書こうか、どんなことを書こうか、完全には決めてはいませんでした。でも、最終回のテーマは決めていました。「哲学」です。
私は、授業を組み立てるのも、作問も、クリエイティブな行為だと思っています。
自分が理科教師としてここまでのし上がることができた理由の一つは、多くの方々から機会をいただけた(無茶振りも少なからずありましたが、それも含めて感謝しています)ことがあります。それに加えて、その無茶振りに応えるかたちで多くの場面でユニークなアイデアを出すことで生き残れたから…という自負もあります。 こういう話もいつかブログに書きたいですね。
そのアイデア力をはじめとする自分の強み(そして弱みなどマイナス面も含めた個性とか人格とか)が、どうやって育まれてきたのかというと、間違いなく自分が生まれ育ってきた環境や経験によるものでしょう。
だから、マーケの教習所の話にも出てきた
今皆さんができることを申し上げるなら、常に向上心と好奇心をもつことではないでしょうか。世の中の様々な事象に目をむけ、様々な人間と接し、なるべく多くを体験すること。
というのは、とても大切なアドバイスなのだと信じています。
とはいえ、一人の人間ができることには限りがあります。なかなか、世の中の様々な事象に目をむけ、様々な人間と接し、多くを体験する…とはいきません。そうすると、どんな事象に目を向けるか、誰と接するか、何を体験するか、取捨選択が必要になってきますが、その取捨選択の仕方によって、人それぞれの個性が出てくるのだと考えます。
余談ですが教務主任として学校説明会で入試の説明をしたとき、自分の持ち時間の最後に、「好奇心と向上心を持った生徒に入学してほしい」という趣旨の話をするという「たくらみ」をアドリブで実行しました。間違いなく「マーケ」の影響です、はい。
その個性ごとに、例えば作問だったら作問の適性も大きく変わってくることでしょう。面白い問題を作れる人はもれなく面白い人でしょうし、薄っぺらい人間は深みのある問題を作れないでしょう。
もし私に作問の適性があるとすれば、私のような生き方をすれば適性が得られるのかもしれません。ただそれは同時に、切り捨てた別の項目では、例えば私だったらスポーツとか芸術とか別の分野では、からきし知識や適性がないことともセットだったりします。
前にネタにした合唱の話などを思い出してください。
作問もその一つにすぎませんが、あらゆるクリエイティブなことは、その人の個性(人格)がにじみ出てくるのだと考えます。それを突き詰めると、例えばある問題を見たら「これはあの先生が作った問題かな」と一種のブランド化が起こるのかもしれません。
問題を通して自分という人間のすべてをさらけ出す、それが作問なのかもしれません。
作問の道は奥が深い…。
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