1123 文京区自主研修会 視点をもって授業改善! ~見えていても見ていないもの~(2016/2/27)

理科授業改善のためにできること、一緒に考えませんか。
お茶の水女子大学との連携事業による自主研修会を開催しました。

「視点」をもって授業改善! ~見えていても見ていないもの~

まずは、軽くクイズから。
警 察+7=時 刻
とするとき
時 刻+2= ?

正解と解説(Ctrl+A)で下の枠内に表示されます。

正解は「消防」
電話番号の数字を計算している
警察=110 時刻=117
なので 117+2=119=消防

さらに、ウサギとカメの話

2つの話の共通点は、「どこに着目するか」。合致すればクイズに正解できるし、ずれていればどちらが速いかが異なる。
違うところに着目していたら相手に伝わらない
→視点をもつ(示す)ことの重要性がここにあるわけです。

理科の授業あるある

S「先生、『考察』のところには何書けばいいの?」
T「実験からわかることを自分の言葉で 書けばいいんだよ」
S「…???(とりあえず考察の欄にも『結果』をもう一度書く)」
  先生が解説するのを聞いて、
S「あ、そんなことでいいの?」
よくある展開だけど、これをどう改善しましょうか?

もし「あなたが担任をしているクラスはどんなクラスですか?」と聞かれたらどう答えるか。
→人数? 学力? 担任の方針? クラスの雰囲気? 目立つ子ども? 何を説明しようとしますか。
でも相手が本当に知りたいのはそこ? 何を話せばいいか迷いますよね。

「(いろいろ考えて)こうこうこういうクラスです」
と説明して
「いや、そうじゃなくて、教室の間取りについて知りたいんですが…」
と答えられたら
「だったら最初からそう言えよ!(怒)」
とムッときますよね。

考察が書けない生徒も、先生が「考察」として解説された内容を結果からきちんと読み取れていることが意外に多くあります。
問題は、当たり前なことを含め読み取れることがたくさんあるけど、どれを考察に書けばいいのかがわからなかった、というわけです。
「だったら最初からそう言えよ!(怒)」と思われないためにも、最初からそう言いましょう。
あれ、でも…授業の最初の方で、実験の前に、すでに言ってたりしませんか?

課題(問題)は大切な視点です。平成27年 全国学力・学習状況調査 中学校理科 8 (3)では、次のような課題と考察が問題文にありました。

課題  ほかの種類の魚でも,えらぶたの開閉回数は,水温が高くなると増えるのだろうか。
考察 結果から,水温が10℃から25℃の範囲では,同じ水温でも魚の種類によってえらぶたの開閉回数は異なると考えられる。 

設問は、課題に対して適切な考察となるように,下線部を書き直しなさい、ということでした。
でも、詳しく問題を見ると、下線部の内容は結果のデータから読み取れることとしては間違っていません。「実験からわかることを自分の言葉で 書けばいいんだよ」と言われてこう書いても、全く間違いではありません。
なのに、なぜ書き直す必要があるのか。それは課題で示された問いの答えになっていない、課題と考察が正対していないからです。
ここの話の詳細は2016年1月号の「理科の教育」に書きました。
ちなみに課題と書き直した考察はこうなります。

課題  ほかの種類の魚でも,えらぶたの開閉回数は,水温が高くなると増えるのだろうか。
考察 結果から,水温が10℃から25℃の範囲では,フナとナマズのえらぶたの開閉回数は,水温が高くなると増える。 

S「先生、『考察』のところには何書けばいいの?」に対し
T「解決したい問題(課題)は何ですか?」
と、問題に視点を向けさせてみましょう。そうすると生徒は
S「(板書を読む)水の量がふえると流れる水のはたらきは、どうなるのだろうか。」 
となって、勘のいい生徒ならそれ以上の説明は必要なく気づくでしょう。そうでなくても
T「結果をもとにして、その問題を解決させ(答えを書き)ましょう」
とすれば、生徒の「『考察』のところには何書けばいいの?」という問いに答えたことになります。

このほか、相手と視点がずれやすい言葉の例として
どのような変化が起きるか
 →色の変化、泡の発生、etc.
運動のようすが変わる
 →「向き」と「速さ」
性質が一様な空気のかたまり
  →「温度」と「湿度」
流れる水のはたらき
  →侵食・運搬・堆積の3つ
等があります。

見えていても見ていないもの

4本足のニワトリ

私たちは見えているものを見ていない、見えているからって見えていない。
「関心」のないものは、そもそもあったとしても見えない
事例

このブログにアップしたら著作権的に引っかかりそうなので示しませんが、多義図形といって同じ絵なのにウサギに見えたりアヒルに見えたりする絵や、少女に見えたりおばあさんに見えたりすることがあります。
これは、見せれば見えるという素朴実証主義ではなく、「観察は理論(または観察者が持っている知識 ) をとおして行なわれる」という観察の理論負荷性というやつです。

すなわち、「ウサギ」や「少女」を見てくださいと言われて「ウサギ」や「少女」みたときは「ウサギ」「少女」のイメージ(理論)をもっているから観察の対象(絵)を認識できるのです。そのとき、「アヒル」「老婆」の絵はイメージ(理論)を もっていないから 観察の対象 としてみえてきません。

同じように、教師は答えを知っているから見えてくるに過ぎず、答えを知らない子どもは教師のようには 見えてこない (観察の対象として見えてこない)ので、見えてくることを当たり前に期待しちゃいけないよ、ということです。顕微鏡観察で泡を一生懸命スケッチするのも、見たい対象がどんなものか見当がつかなかったから、そうなったわけです。

だから、ただ見せるだけでなく「視点」という理論をもたせる 必要があるわけですね。

視点をもつこと

視点をもたせるメリットとして、よそ見(想定外の拡散)をしなくなる、ということがあります。
あまり想定外の拡散が進むと授業が収拾がつかなくなりますから。
たとえば中1の最初にやる校庭の生物の観察で、生徒がそこら辺の適当な草をもってきて「先生、この植物の名前は何?」と聞かれることを想像してみましょう。なんでも即座に図鑑のように答えられる人もいるでしょうが、レアだと思います。答えられないのも先生としての沽券にかかわりますね。「じゃ、図鑑で調べてみよう」という逃げ方もありますが、校庭に出る前の段階で「この植物を探そう」みたいな視点を示しておくと、余分な知らない植物に注目が行くリスクが軽減できます。

では、実際に授業を見てみましょう。研究授業のコメントをするつもりでいろいろ気づいた点を挙げていきましょう。
全国学力・学習状況調査の結果を踏まえた理科の観察・実験に関する指導事例集【中学校】の事例D 模型づくりを通した葉の観察のビデオです。

授業を見る視点として、たとえば
子どもの動き
授業の基礎・基本
その先生らしい細やかな配慮
授業構成など大局的な面から
環境・システム(普段の授業を推察)
などがありますが、どんなベテランの先生でも一人ですべて見つけられるかというと至難の業です。

そこに、協働学習の意義があるわけです。
グループになることで視点の多様性がもたらされ、自分にない視点の発見「その発想はなかった」が発生すると、してやったりです。
一人の「できる子」も、グループにはかなわない、ということが実感できるとよいですね。
(ただし、協働になることで、ノイズの増加やコミュニケーションのコストという問題も発生することがありますが)
でもいろいろな個性(立場)からいろいろな視点が生まれることは間違いがありません。