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1119 品川区教育会理科部 研究授業 2015年12月 流れる水のはたらき (前編)

※この記事は2015年12月02日に更新したものです。

品川区の研究授業に講師に行きます。
9月に行われた文京区の研修会につづき、オンライン資料を作ってみます。
研修会の復習や、他の先生への紹介、授業などでの関連サイトのリンクなど、ご活用いただければと思います。

ご不明な点等がございましたらどうぞお問い合わせください。
今回の内容に限らず、理科についてのご質問やご相談などでも協力できることがあるかもしれません。
お気軽にご連絡いただければと思います。

あ、あとよかったらこのブログのほかの記事も見てやってください。理科に関係ない記事も多いですが。。。

1.実感を伴った理解と実体験

現行(平成20年改訂)の小学校学習指導要領における理科の目標を改訂前(平成10年改訂)のものと比べると、1か所だけ変更点があることがわかります。

自然に親しみ,見通しをもって観察,実験などを行い,問題解決の能力と自然を愛する心情を育てるとともに,自然の事物・現象についての実感を伴った理解を図り,科学的な見方や考え方を養う。

「実感を伴った」というところが加わりました。

そして小学校学習指導要領解説 理科編では、「実感を伴った理解」には次の3つの側面があるとしています。
具体的な体験を通して形づくられる理解
主体的な問題解決を通して得られる理解
実際の自然や生活との関係への認識を含む理解

そして具体的な体験や主体的な問題解決をの先に、今はやりのアクティブラーニングがあるのだと思います。

一方で、児童の実態として、指導案から引用すると、次のような点が指摘されています。

知識が豊富ですすんで発言をする児童も、知識だけが先行し、実体験が伴う理解をしている訳ではない様子も見受けられる。
日常生活の中で川を目にする機会はあまりなく、川遊びなどの経験がある児童も多くはない。

都会っ子なだけに、自然を経験することが少なく、知識先行・体験不足になりがちな点を指摘しています。(すみません、授業者のW先生、使わせていただきました)

では、川遊びなどの経験さえあれば、学校での川の学習について「実感を伴った理解」が得られるのでしょうか?

1980年に旭川医大で4本足のニワトリを描いた大学生がいる!ということをテーマにした入試問題がありました。そのときには子どもたちに体験をさせないからダメなんだと小・中の理科教育が批判されました。

それならば…と1年間ニワトリ小屋の清掃をした小学4年生にニワトリを描かせてみたらどうなったか。
やはり4本足のニワトリを描いた子どもがいて、有意な差はなかったそうです。
参考文献パクリ元はこちら
益田 裕充「なぜ大学生は4本足のニワトリを描くのか―理科指導の研究」上毛新聞社事業局出版部,2012
いい本なのにいつの間にか絶版に…。

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一方、この「4本足のニワトリ」の話が有名になればなるほど、「ニワトリの足は2本」と、ニワトリを観察したのではなく、情報として取り込んでしまう人も出てくるでしょう。4本足のニワトリの絵を嘆く人なら、実物を見ないで、「ニワトリの足は2本である」と知識としてインプットしている人に対しても「頭でっかち」とか「受験の弊害」とかいって批判するのではないでしょうか。

とにかく、体験の不足だけで話を片付けるわけにはいかない問題のように思えます。
少なくとも、体験させれば実感を伴った理解を得られるというのは幻想のようです。

ここで、ある知識(たとえば「ニワトリの足は2本である」)の有無と関連した経験(ニワトリを飼育したことがある)の有無で2×2の表を作ってみます。
すると、4つのパターンができますね。それを表のようにA~Dとします。

知識がない知識がある
経験がないA.別世界B.頭でっかち
経験があるC.遊んでるだけD.理想的だが…

Aは「経験もないし、知識もない」
ニワトリなんて別世界の存在、自分に一生関係ないし、というスタンス。
ここまで吹っ切れると逆にすがすがしい?もしかしたらアリなのかもしれないとさえ思ってしまいます。

Bは「経験がないけれど知識がある」
「テレビでやってた」「本で読んだ」「塾で習った」「ばっちゃが言ってた」など、直接経験ではなく、(広い意味の)メディアによる間接経験です。ともすると頭でっかちとか受験の弊害とか言われることが多いですが、何事も経験するのにコストがかかります(金銭的なものに限らず時間や労力の意味でも)。それを考えると仮に実感の質が直接経験より多少落ちたとしても、効率的と言えるのかもしれません。

Cは「経験したのに知識はない」
 ニワトリ小屋の掃除をしたものの相変わらず4本足のニワトリを描いてしまった小学生のように、ただ経験していても、それだけでは学びにつながらないこともあるのです。
 「這いまわる経験主義」に象徴されるように、そこからの一般化・法則化などの系統的な学びがないと、結局使えないのです。
 体験しているだけではだめで、視点をもって観察(実験)しないと実感を伴った理解には結びつかないのではないでしょうか。
 ただし、経験が教育活動ではなく娯楽という位置づけなら、楽しいからいいじゃんで議論は終わります。で、実際、家族で山や海に行くというときは、教育活動をメインの目的としているわけではありませんよね、ふつう。

Dは「経験があって、知識もある」
 「実感を伴った理解」はここに入りますが、Bでもふれた「経験のコスト」という視点で考えると、どこまで経験して理解するべきかは大きな問題です。
 たとえば小学校では昆虫に関して、実際に観察して、そこから頭・むね・はら とかやってますよね。これなら「実感を伴った理解」につながるでしょう。
 でもニワトリについてはそこまでやっていない、だから4本足を描いてしまう。ならばニワトリについても足の数について調べるために観察してみましょう、というふうになるでしょうか。
 「やればいいじゃん」と思った人、いませんか。
 その考え方を広げると、ニワトリの観察をするときに、脚だけで済まなくなりそうです。頭は?羽は?しっぽってあったっけ?それだけではありませんね。ありとあらゆるものを観察しないといけなくなりそうです。
 他にもやらなくてはならないことがあるでしょう。これは膨大な量ですよ。学校では他にもやることいっぱいあるのに…。
 また、経験と知識は本当にリンクしているのか?経験から実感を伴った理解をしているのではなく、情報として言っているけど、たまたま経験している、Dではなくて実はB+Cのパターンも十分考えられます。

「実感を伴った理解」にはDがベスト、というわけではなさそうですね。

ということは、身近な経験をしていなくても指導の工夫によって「実感を伴った理解」はできるかもしれません。

その工夫の一つがモデル実験といえます。
特に地学的事象は、時間的・空間的スケールの問題や、要因が多すぎて複雑なことなど、事象からその本質を抽出ことが難しい場合が多いです。観察可能なスケールで、かつ事象の本質がつかみやすくなっている優れたモデル実験は、何回もできることや、条件を変えたものを並べて比較できることなどのメリットもあるので、身近な経験に勝ることさえあるでしょう。今日の授業の流水実験機などはその最たるものです。

ただしモデル実験には留意点があります。
平成27年度全国学力・学習状況調査【中学校理科】では、モデルを使った実験において、装置や操作が自然の事物・現象との対応を認識することに課題が見られました。
びんから空気を抜く操作が、飛行機のどういう状況に見立てたものかという問題でしたが、正答率が62.7%と、もう少し頑張ってほしいレベルだったのです。
 

そして、これも全国学力調査からなのですが、「転移」って、ほおっておいたらなかなかできないということもおさえておきましょう。
平成19年の小学校の算数の問題から2問、見てみましょう。
まずは算数A 5(1)の問題。

次の図形の面積を求める式と答えを書きましょう。
(1)平行四辺形

この正答率はなんと96.0%、相当数の児童ができています。

そして、数十分後に同じ児童たちが解いたのがこちら小学校算数B 5(3)の問題。

ひろしさんの家の近くに東公園があります。
東公園の面積と中央公園の面積では,どちらのほうが広いですか。
答えを書きましょう。また,そのわけを,言葉や式などを使って書きましょう。

 なんだ、さっきと同じじゃん、平行四辺形の面積を求めるんでしょ。それと長方形の面積と比較すればいいんじゃない。だったら正答率も高そうですね。なんてったって同じ児童たちがさっきの問題を解いてから数十分しかたっていないのですから。

 ところが。
 この問題の正解率はなぜか18.2%。なんなんだこの差は。まあでも、言葉や式などを使って説明する必要があるので、正解率が下がるのは当然と言えます。それにしても下がり過ぎではないかという気もしなくもありませんが、それは主観的なとらえ方なので、ひとまずおいときます。
 ところで全国学力調査は、採点が単なる○×ではなく、×もどのように間違えたかを分類しています。それをみると、最も多かった誤答のパターンが、平行四辺形(中央公園)の面積を「底辺×斜辺」で求めたパターン、34.4%、つまり正解の2倍近く。おいおい、お前ら、さっき平行四辺形の面積を正しく「底辺×高さ」で求めてたじゃないか。

 いやもちろん、「平行四辺形の高さ150mが図形の外に示されているために、斜辺を高さととらえたから」とか「一般的に、授業で用いられる問題には解決に必要な情報のみが与えられているので、今回のような情報過多の場面からは問題の解決のために必要な情報を選択できなかったから」とか、いろいろな言い訳は考えられますが、こんな簡単な応用でこれだけつまずく児童がいるということは、複雑な要素が絡む自然(自然の事物・現象)から自然に(おのずから)学ぶことは、児童にとって相当レベルの高いことなのかもしれません。

明日に続く。

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