あらかじめ予防線を張っておくと、私は大学や大学院は理学部化学科・理学系研究科化学専攻だったので、「理科教育学」みたいな単位は、教職課程の「理科教育法」を4単位とっただけなんですよね。しかも理科教育のアカデミックな世界は、興味ないわけではないけど、学会発表は課題研究発表、つまりチーム戦に2回出た程度で、実は個人戦(一般研究発表)は一度も出ていません。ついでにいうと査読論文はゼロです。科研費もとったことがありません。若いときに勢い余って東書教育賞を受賞したり、下中科学研究助成金とかをもらったことはありますが、それはさておき。
今でこそ理科教師として30年、大学院生の非常勤講師から含めれば32年、学生の塾のアルバイトから始めれば36年、理科の授業をしてきたことになります。その間、周囲の人に恵まれて、文科省や教科書編集委員のような仕事、執筆活動として単著・編著・共著、さらには新聞の連載や雑誌…といろいろやらせていただきました。さらに教える対象は中学生だけではなく、理科の先生を目指す大学生に理科教育法も担当していますし、研修会などでも講師として呼ばれることもあります。おかげで、初めてあったはずの人に「あ、〇〇さんですね、あの!」と言われるようになってしまっているぐらいに持ち上げられてますが(「あの」、ってどのだよ!)、いまだにそこに乗っかり切れないコミュ障な自分がいるのは、ひたすら経験と肌感覚と自分の思考・発想をメインにしてここまでやってきただけで、アカデミックな小難しい理科教育学とは無縁だったからかもしれません。
温泉チック、とか言われてもよくわからないよ…あ、オーセンティック?いやそれでもわからん。
OPP?なにそれ、ひょっとして「オッペケペー」?
フォークス(4QS)、あそれ知ってる。うちの近くにもあるよサーロインステーキがうまいんだよな。え?フォルクスじゃないの?
一応解説しておくとオーセンティック(authentic)とは「本物の」という意味で、単なる授業内の話とかその単元の知識や技能の習得を目的としてつくられたものではなく、現実世界の文脈で(こういうときに「文脈」という言葉を使うのもまたスカした感じがしてアレなんだよな~と思うのは私だけでしょうか?)で学びをデザインしていく(またこれも…以下略)ときに出てくるキーワードです。
OPPは One Paper Portfolio 1枚ポートフォリオ といって一連の学習の記録を1枚にまとめたものです。ここ数年間「主体的に学習に取り組む態度」の評価材料として人気が赤丸急上昇。実は私も理科教育法で使っていました。
4QSは Four Question Strategy で…あとはググってくれ。
てなわけで、俺、理科教育が専門じゃないからよくわかんないけどよぉ、根拠をすっ飛ばした「予想」や「仮説」もアリなんじゃないかなぁ。
いや、わかるんだよ。「根拠のある予想や仮説を発想し、表現すること」という「問題解決の力」とか、探究の過程における見通しとか。頭ではわかってるんだよ。
でもそれって、昭和の昔、寺田の鉄則で有名な数学の寺田文行先生がラジオ講座で「数学の入試問題は解けるようにできているんです」と何度も言ってたけど(その節はお世話になりました)、理科の授業中に、温泉…じゃない、オーセンティックじゃない文脈で、生徒が学んだことを活用すればある程度十分に根拠をもった予想や仮説を立てられるような問題を先生がお膳立てした場合じゃないと無理だよね?そりゃ、別に教育という練習の場だから根拠をもった予想や仮説を立てられるようにできていて当然だし、決してそれが悪いと言ってるわけじゃないんだけど。
なんだけど、パズルを解くよりはパズルを作りたい自分としては、お膳立てされた問題で、根拠をもった予想や仮説を立てて、その仮説が正しいことを検証して結論へ流れる…というのはどうもお釈迦様の手の上で踊らされているような感覚もあって物足りなさを感じるのさ。
それよりはなんというか、その、規則正しい食生活をしている人が、たまにジャンクフードを食べたくなるような感覚で、まじめな委員長キャラの女の子がアウトロー系のヤンキー男子に惹かれるステレオタイプのように、根拠のある予想や仮説とかずっとやってると、根拠レスな「なんとなく」「とりあえず」の予想や仮説って、どこか惹かれちゃうんだよね。
たとえばAかBのどちらか、という2択の課題があったとするじゃん。で、どちらなのかを根拠をもとに仮説が組み立てられればいいけど、根拠を必須とすることで理論構築できずうまく仮説が整わないで時間だけが過ぎていくよりは、「とりあえず、Aじゃね?」と、深く考えずに仮説を設定して、それを検証して正しいとか誤りだとかわかった方が先に進めるんじゃないかなと思ったりするのですよ。
それをせずに予想だ仮説だとか議論を戦わせるのは、なんだかなぁ~、さっさと実験しちまえばいいのにと思うわけさ。
ふと、乾電池1個と豆電球1個の回路で、電球を通る前と後では、どちらが電流が大きいかを実験せずに予想を議論だけで1時間やった授業を思い出した。そういえばその授業した先生、4QSとか使ってた理論研究バリバリの附属の人だったなぁ…(遠い目)。お前も附属だろ!というツッコミはさておき。
じゃあなんで仮説に根拠を重視するのか。そうでなければごめんだけど、仮説形成は根拠をもとにした推論の練習の場として使っているからじゃないかなと思うんだな。たしかにそれ自体はたぶんアリなんだと思うよ。
でも、仮説に根拠を重んじるあまり「仮説は正しい説であるべきだ(正しくないといけない)」と学んでしまわないかなという懸念がある。実際理科教育で子どもに仮説を立てさせたら、結構な高確率でその仮説って正しいんじゃない?複数の対立する仮説(正しい仮説と間違っている仮説)を戦わせるとか、素朴概念でどーのこーのとかもあるけど、そんな多くないよな。
「仮説は正しい説であるべきだ(正しくないといけない)」、裏を返せば「仮説は間違っていたというのは、ダサい、意味ない、諸悪の根源、無駄無駄無駄無駄無駄ァ!」という思想に陥ってしまったらそれはイカンだろと。
実際、「仮説は間違っていた」というのはすごく意味のあることだよ。
たとえば、何か事件が起こって、あなたが犯人だと疑われたとしよう。つまりこれは「犯人はお前だ」という仮説だ。この仮説が正しいか誤りか決着がつかなければ、お前は疑われている状態だ。推定無罪の原則とはいえ、この世の中、「犯人の疑いがある」というのは居心地が悪いだろう。でも、「犯人はお前だ」という仮説が誤り、すなわち「お前は犯人じゃない」ということが証明されれば、晴れてあなたは堂々とお天道さまの元を歩けるわけだ。どうだい、仮説が誤りだったことがわかるいうのは、じゅうぶん意味のあることだってわかったろ。
ちなみに、よくある冬山のロッジとか、台風で船が来れなくなった小さな島とかで事件が起きて、一同がロビーに集まったときに「犯人はこの中にいる!」と高らかに宣言するのは、仮説が誤りということを利用した、あまつさえ、わざと否定される仮説を設定するという高度なテクニックだ。すなわち、「そうはならんやろ」と思いながらもいったん「犯人は外部にいる(ここにはいない)」という仮説を立て、「だとするとここから逃げられないじゃん」というような検証を経て「犯人は外部にいる(ここにはいない)」という仮説がやっぱり誤りだと確定させたところで、「犯人はこの中にいる!」と声高に言うわけさ。この宣言をせずに、「言うたかて外に犯人がいるかもしれんし…」と思われながらロビーにいる容疑者を一人一人を尋問するのは、名探偵らしくないやろが。
否定するために仮説を設定するという高度なテクニックを使っているのは数学でもおなじみだ。ルート2が無理数だ(既約分数で表される有理数ではない)ということを証明するのに、あえて、「ルート2が有理数(既約分数で表される有理数ではない)」という仮説を立てて、そのときに矛盾を引っ張り出してこの仮説は間違っている、だからルート2は無理数だ、という背理法による証明なんかはまさにこれじゃないか。
とまあこんなわけで、仮説はしょせんその後にやる検証作業のためのたたき台に過ぎないんだから、根拠レスでもええじゃないか。それよか、さっさと検証しようぜ。そう思ったんよ。そんだけ。
なんかすごく怒られそうな気がする…。
実験結果の予想(『理科の教育』2012年9月号)
2012-08-27
…なんて過激なことをまだ思っていなかった一回り前に書いた原稿。
『理科の教育』の連載講座「中学校理科教師のためのチェックリスト」
7月号を書いたと思ったら、今度は9月号です。ちなみに8月号は特集の関係で休載でした。
ってことは連続じゃん!
9月号は「実験結果の予想」というテーマで書いてみました。実はこれ、このブログで過去に書いた実験結果の予想のねらいがベースになっています。
恒例、今月のチェックリスト
□実験結果の予想をさせることにおける〇〇〇〇〇〇〇を3つ挙げられる。
□予想では単なる〇〇だけではなく、その〇〇も含めて〇〇・〇〇させている。
□自分の予想に〇〇を持たせるような工夫をしている。
□実験ごとに予想の〇〇〇を考え、その後の〇〇や〇〇に効果的に結びつけている。
今回は〇が多いような気がしますが、過去のブログ記事を見れば、たぶんわかります。
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