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0177 中学校指導書 理科編 昭和53年5月 文部省 (3)自然を調べる能力と態度の育成

自然を調べる能力と態度の育成(前半)

 この辺りは前指導要領で大切にしていたところを踏襲している感じがします。また、平成29年度改訂版の新指導要領にもつながっている考え方だと思います。ただ、具体的な場面で示しているのではなく、思いっきり抽象化しているので、言っていることは間違いないんだけれども、それだけに真新しいこともなく、とりあえずお題目というか、理科室の掲示板が寂しいから貼っておいた周期表(音楽室だったらバッハとかモーツアルトの肖像画w)のような、如何ともしがたいものがあります。

第4節 自然を調べる能力と態度の育成
 現代は,自然科学の進歩と社会情勢の変化の極めて激しい時代である。このような進歩と変革の激しい時代に対処するとともに,社会の進展に寄与するためには,膨大な情報を適切に処理して問題を解決したり,創造的に思考したりする能力や態度を身につけることが大切である。もちろん,このような能力や態度の育成は,教育全体の中で行われるものであるが,理科においては,自然の事物や現象を調べる過程を通して,その育成がねらいとされているのである。
 ここでいう「自然を調べる」ということは,自然の事物・現象の中に問題を発見し,情報を集めて,それらを適切に処理して規則性を発見したり,認識を深めたりすることである。
 ところで,この自然を調べていく過程は,その対象の特質や調べるねらいによって変化するものである。例えば,問題の発見,情報の収集,情報の処理,結論を導びくなどの一連の過程が,様々な順序や重点がかけられて展開される。そして,この自然を調べる方法や順序が確立されるということは,研究を進める上で極めて重要なことである。
 自然を調べる過程の中で用いられる技法や考え方は,理科では,科学の方法ともいわれている。それは,自然を調べる際に,しばしば用いられるもので,観察,実験,測定,記録,データの処理,予想,予測,推論,仮説,モデルの形成,検証などが挙げられる。
 ここで,自然を調べる能力と態度の育成として掲げられているのは,これらの科学の方法を個々別々に習得させるというのではなく,具体的な問題に対処して,その解決ができるようになることが望まれているのである。このためには,自然を調べていく過程で,これらの科学の方法を,必要になった時点で収り上げることが有効であると考えられる。 この場合,生徒は必要感をもって学習するとともに,その学習の中で何回か繰り返されることとなり,その定着が期待できる。
 更に,これらの能力や態度を生きてはたらく力にまで高めるためには,生徒自身に,探究の過程を実際に歩ませることが大切である。 しかし,最初からこのような探究的な学習を事前の指導なしに自由にやらせることが常に有効であるとは限らない。 自然を調べる方法やその過程についての定形を学習させ,その後,流動的な探究の過程をたどらせるように配慮することも重要なことである。

自然を調べる能力と態度の育成(後半)

 後半では、打って変わって前指導要領では注目されなかった「創造性の育成」とか「価値判断」というキーワードが見られます。人間性の回復といったところでしょうか。

 今回の理科の目標の記述の中から,創造的な能力と態度の育成に関する事項が省略されている。これは,創造性が人間の本性にもかかわることなので,教育全体の中で取り上げることとし,理科で特に明記しなかったのであるが,自然を調べる能力と態度の育成の中で創造性の育成が期待されているのである。すなわち,自然を調べていく過程で,実験の方法や装置を工夫したり,自然の多様な事物・現象やそれらについての概念に新しい関連付けをしたり,独創的な解決をしたりすることは,理科の学習においては,極めて重要なことである。そのことが学問上では既知の事柄であったとしても,その生徒にとっては発見であり創造である。このような機会を,学習指導の中にできるだげ多く組み込んでいくことが大切である。
 自然を調べる活動の中で,正しい価値判断を育成することも大切である。すなわち,自然を調べることの意義や,自然の開発や利用が人間の生活や自然そのものにどのような影響を及ぼすかという洞察力や感受性を養う必要がある。そして,その根底には,自然を愛すると同時に,自然を畏敬する心を養う配慮がなくてはならないであろう。
 自然を調べる態度を永続させる根源は,自然に対する限りない好奇心であり,それを理解しようとする心であろう。指導の導入段階ではこの心を誘い,この学習の終わるときにもたらされる充実感によって,この心が一層深まるような配慮が必要である。

 プロの将棋で、新しい戦法は1回しか役に立たない。1回使うとその情報が回り、みんなしてその対策を立ててしまうからだ、みたいな話を聞いたことがありますが、理科において、本来思考する場面、創造性が問われる場面でも同じことが言えます。 
 たとえば、植物が光合成をしていることを確かめたい場面なんかは、丁寧に先生か友達か(植物が光合成なんてしていない!と主張する人とかがいると最高ですが)との対話などを重ねながら、対照実験の必要性を導き出したりできれば、まさにここでいう「発見であり創造」だと思うのですが、現実的にはなかなか難しいところがあります。
 もちろん、必要な条件がそろっていてもその生徒が思いつかない、ということもあるのですが、それ以上に厄介なのが、「すでに答えを知っている(吹き込まれている)」ケース。「このときには植物が入ってない奴と比べるんだよ」と瞬殺されてしまうと、子供にとって発見の喜び、創造性の育成の機会が奪われてしまうわけです。
 とくに、いろいろ試行錯誤して味わってほしいという気持ちで、まだ知られていない思考問題を作問する(面白そうな事象を苦労して探し出してくる)立場としては、最初に答えを教えて、結論までスピーディに結論に達するような解法指導は、営業妨害というかなんというか。いわば推理小説を読んでいる人に「犯人は〇〇だよ」と横で囁くような暴挙です。
 そういえば、昔、劇場版の「相棒」が公開された当日に、某巨大掲示板のスレッド名に「犯人は○○!劇場版『相棒』の…」と犯人役の俳優の名前がモロ書きされていました。
 ところがさらに困ったのは、普通だったら推理小説を読んでいるところにその犯人を言われたら怒るでしょうが、読者側も、ストーリーはどうでもよくて犯人を早く正しく見つければ評価される立場で早く犯人を知りたいと望んでいたりするのです。つまり、子ども自身が「発見や創造」よりも「正解となる知識」を効率的に見つけることを重視しているのです。そりゃあ丁寧に考えて時間切れになって結論にたどり着かない人よりも、最初から答えを知っていた人が高い点数がつけられるシステム(受験がそうですよね)のだったらそうなりますよね。巧妙なトリックを考える小説家の身には、つらいものがあります。
 とはいえ、一生懸命考えてもゴールにたどり着かなかった人と、全く考えていない人をどのように見分けるか、もちろんつきっきりで見ていけば可能ですが、クラスに30人以上の生徒がいるとそうもいきません。効果的で持続可能な(もちろん公平性を前提として)評価方法が提案できないという問題もあり、現状への代案が出せないのも悔しいところです。

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