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0176 中学校指導書 理科編 昭和53年5月 文部省 (2)中学校理科の性格

 第1章「総説」は、第1節「改訂の趣旨」のあと、第2節「中学校理科の性格」、第3節「中学校理科の目標」、第4節「自然を調べる能力と態度の育成」、第5節「理科における基本的な概念の形成」と続きます。
 これは、例えば次の平成元年版の指導書の第1章「総説」が、「改訂の趣旨」と「改訂の要点」のみになっているの比べ、かなり手厚く書かれています。(ただし、平成元年版では、理科の目標については、第1章「総説」から第2章「目標及び内容」に移動しています。)


中学校理科の性格

 第2節は「中学校理科の性格」というタイトルで、前半は中教審答申であった小中高の一貫性から始まり、中学生の発達段階に応じて内容や方法が考えられなくてはいけないことが述べられています。で、後半部。

 中学校の生徒は,知的探究心が高まり,ある程度抽象的にものごとを考えたり,論理的,合理的に判断しようとする傾向が強くなる時期にあるといわれる。したがって,具体的な目標や内容を設定するに当たって,これらの特質を十分に考慮し,論理的に思考する訓練が適切に行われるように配慮する必要かある。しかし,反面,自然の事象に対する経験がまだ非常に不十分である点にかんがみ,直接経験を基礎としない抽象化や一般化を急いではならない。中学校でも第1学年と第3学年とでは発達段階において相当な開きがあり,その経験内容にも大きな隔たりがある。
 自然を調べる能力及び態度の育成が無理なく行われるようにするためには,内容の選択や構成が国の基準として極めて妥当なものであるとともに,特定の学校・学級,更に生徒一人一人にとって適切なものでなければならない。したがって,国の基準としては,基礎的・基本的な事項を示すにとどめ,具体的な教材の選択や学習方法については創意工夫の余地を多くし,柔軟性のある取り扱いができるようにすることが必要である
 最近の社会は,情報伝達の媒体の急激な発達によって,直接自然の事物・現象に触れる機会が少なくなっており,特に,大都会などにおいては,自然に直接触れるという機会がいよいよ少なくなりつつある。中学校理科において自然環境についての基礎的理解を得させるという意味は,なるべく自然に触れるという経験や,ある意図,ある意識をもって自然にはたらきかけるという経験を多くするという意味であろう。
 また,最近の技術的・経済的発展は,一方では自然破壊,環境汚染を招来し,人類の生存さえも脅かすようになってしる。中学生は個人を中心とした考え方から脱げ出して,ようやく社会全体のことに考え及ぶ時期にさしかかってきている。 自然と人間とのかかわりについて認識を深めることは,必ずしも個々の特定な問題の現象的な把握にとどまらず,人間と自然のかかわりについての科学的理解に基づいて,主体的に判断し,賢明な意志決定ができるようになるための素地をつくることを意味している
 中学校理科は,およそ,以上のような性格をもつものであるから,その性格にふさわしい目標,内容をもつことが要請される。

 中学生は心身ともに変化の大きい時期ですから思考と経験のバランスが取れないことがあるのはその通り。理科でいえば自然に直接触れるという機会どころか、従来の日常生活に触れる機会さえ減っている感じがします、グラニュー糖とか片栗粉といってもピンとこない生徒も少なくないし。そんな感じで、教師が身近な物と思っていたら案外生徒にとって身近な物ではなったりすることも増えてきた昨今、「身近なものを利用して興味を持たせる」ということが少しずつ難しくなってきている、じわじわとした危機感を持っています。
 「国の基準としては,基礎的・基本的な事項を示すにとどめ,具体的な教材の選択や学習方法については創意工夫の余地を多くし,柔軟性のある取り扱いができるようにすることが必要である」というところは、国(文科省)の仕事をさせていただいて、それはひしひしと感じています。現場に向けて、こういうことは大事にしたいね、というメッセージを込める一方で、細かいところまで全国統一するのではなく、現場、とくにそこにいる多種多様な子供たちを前に、彼らにとって少しでも良い条件で学習してもらえるように、具体的なやり方は任せる。その気持ちは非常に強いです。だから私はありがたく、メッセージに乗せられた想いを大切にしつつも、細かい具体的な部分は好き勝手やらせていただいております(笑)。
 が一方で、「質量をはかる器具には、上皿天秤と電子天秤がありますが、どちらを使った方がよいのでしょうか。決めてくれ!」と指導主事さんに詰め寄ってくる現場の先生もいらっしゃるようです。「好きな方使えばいいじゃん、両方あるんだったらテキトーに使い分ければいいじゃん」というのが私の本音ですが、それだと「理科の教育」の原稿どころかブログの記事にさえならないので回答を用意しましたが。
 ちなみに「総合的な学習の時間」が始まった当時も、文科省側は自由度を高くしたけど、逆に現場が何したらいいかわからない。とりあえず思いつく授業の補習や行事の準備はどうも趣旨に反するのでダメらししい。一応、例として情報・国際・環境・福祉がキーワードに挙げられてたけど、全く新しいことなのでピンとこない。ってことで混乱していましたね。当時、電車内の週刊誌のつり広告でも、迷走する総合学習・ゲームの攻略法がテーマに、みたいな記事があったかと思います。
 そして、昭和52年の時点で中理に「主体的に判断し,賢明な意志決定ができる」とまで書かれていたのも結構びっくり仰天です。いわゆる物化生地が融合した第7単元の元祖といえる「自然と人間」のことをさしているのはわかりますが、むしろ3年の2学期ごろまでやっているそれ以外の単元は、平成20年告示の指導要領まで、理科では誰が見ても変わらない科学的客観性を重んじ、価値判断とか意思決定とか、自然の事物・現象を扱うにあたって、主観、すなわち人によって異なる色がつくことは避けていたように思えます。そういうことをやるんだったら社会科あたりでやれよと。
 「自然と人間」で扱うのはせいぜい生命尊重、自然愛護、環境保全あたりが関の山でしょう(それが重要でないといっているわけではありませんよ)。エネルギー問題と原子力発電の例を除けば、ほぼほぼ、落としどころ、どっちの陣営につくべきかは決まっていたような感じがしています。
 ここまで書いてみたものの、令和の時代は、コロナ、311後の原発、遺伝子組み換え、地球環境問題と、当時よりはるかに深刻に「人間と自然のかかわりについての科学的理解に基づいて,主体的に判断し,賢明な意志決定」が迫られている時代だから生ぬるく見えるのでしょうね。当時としては、大きい一歩だったのだと思い直しました。

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