教科書採択の時期も終わったから、ちょっとセンシティブな話をしますね。
実は前々からモヤっていた話なのですが、教科書や授業での光合成に関する対照実験を用いた一連の展開について。
仮説:光合成には「光」が必要である
この仮説を確かめる実験は 0580 【植物の体のつくりと働き03】光合成と光・緑の部分 でやったように、葉の一部をアルミ箔で覆って、光の当たる部分と当たらない部分を作って両者の違いを比較した。いいよね。
で、アルミ箔が当たった部分はデンプンがあった(=光合成できた)けど、当たらなかった部分にはデンプンができなかった(=光合成できなかった)。だから光合成には光が必要だ、という論理展開になりました。これはいいです。
では、次に
仮説:光合成には二酸化炭素が必要である
この仮説を確かめる実験ですが、 0582 【植物の体のつくりと働き05】光合成に必要な物質 でやったように、
① 2本の試験管に息を吹き込む。
② そのうち1本だけタンポポの葉を入れる。
③ 2本ともゴム栓をして、日光に当てる。
④ 数時間後、両方の試験管に石灰水を入れる。
はたと、「これで本当にいいのか?」と疑問に思ったわけですよ。
タンポポの葉の入っている試験管の方はいい。だけど、比べるのは空っぽの試験管でいいのか?
ここで一つ目の、光合成には「光」が必要だということを検証する実験を振り返ってみよう。
ここでは、検証したい「光」の有無以外は同じ条件にして、2つの葉に光合成をさせようとする。
その結果光があるところは光合成が行われ、ないところは光合成が行われなかった。この結果の違いは、唯一の変えた条件「光」の有無による。このようにして、光合成には光が必要だということが証明されたわけだ。
それを真似すると、光合成には「二酸化炭素」が必要だということを検証する実験は、こうすればよいことになる。
ここでは、検証したい「二酸化炭素」の有無以外は同じ条件にして、2つの葉に光合成をさせようとする。
その結果二酸化炭素があるところは光合成が行われ、ないところは光合成が行われなかった。この結果の違いは、唯一の変えた条件「二酸化炭素」の有無による。このようにして、光合成には二酸化炭素が必要だということが証明されたわけだ。
お判りいただけただろうか…この2つの実験を説明した文章、光を二酸化炭素に変えただけなのである!
つまり本来、光合成には「二酸化炭素」が必要だということを検証する実験はこのようにしなくてはならないのです。理屈の上では。(それを実際にやろうとすると面倒なのは同意)
なの、にだ。さっきの「光合成には二酸化炭素が必要である」ことを検証する実験、変えている条件は二酸化炭素でなくて、葉だけど、いいのかな、これ。この実験で証明されるのは、「葉によって二酸化炭素が減った(消費した)」ということでしかありません。
たぶんここには、「光を当てた葉は光合成をしているものとする」という前提があるのかなと思うのですよ。
そうすると『美味しんぼ』24巻で海原雄山がカレー屋に「まず第一にカレーとは何か」と営業妨害してきたときの如く、「まず第一に光合成とは何か」という問題が生じるのです。
「カレーの定義だ。カレーと呼ばれるのはなんとなにが必要なのだ?」「辛ければそれがすべてカレーなのか、色が黄色ければカレーなのか?」と矢継ぎ早に煽ってきたように「光合成の定義だ。光合成をしているといえるにはなんとなにが必要なのだ?」「葉に光を当てれば光合成なのか?」と小1時間問い詰めたい。そして「カレーの定義もできないくせに、自分の好みというのはおかしいじゃないか。」と檄詰めしたように、「光合成の定義もできないくせに、このやり方で光合成に二酸化炭素が必要だという結論づけるのはおかしいじゃないか。」と問題提起したくなるのです。
ちなみに雄山のロジハラはまだ続くのですがこの辺にしておきますが、やはり光合成の定義としてはエネルギー源である有機物(ここではデンプン)をつくるということ妥当なのではないでしょうか。オプションで酸素の生成というのもよいですが。
新品価格 |
そして第二に「光合成には二酸化炭素が必要である」ことを証明するには、実験がめんどくさくなることを覚悟で「(植物に光を当てたところで)二酸化炭素がないと光合成ができない」ことを示さなくちゃいけない、すなわち
二酸化炭素がある中で植物に光を当てる→光合成が起こる
二酸化炭素がない中で植物に光を当てる→光合成が起こらない
という流れにになるのではないかと思うんですが、どうでしょうかね、山岡士郎さん?
コメント