「化合」が使えないのはいろいろ困る
令和3年の教科書(つまり平成29年度告示の学習指導要領の施行)を境に、中学校理科から「化合」という言葉が駆逐されてしまいました。大変遺憾極まりない。
中学理科教師プロパーの立場からは大変重宝しているというか必要不可欠な用語だったのですが、どうやら大学や高校の化学の先生方にとってはそうではなかったようで、将来的には中学・高校に残すべきではないとか言い放ってしまったら、中学理科の世界から将来的どころか一瞬のうちに塵となって消えてしまいました。
平成28年度版までの中学教科書が、例外なく「分解」と「化合(酸化は酸素との化合,など)」の二分法を強調している、としています。たしかに「分解」という用語や「化合」という用語は登場しましたが、他にも「酸化」「還元」「燃焼」、3年になれば「中和」と、他にも化学変化の種類を示す用語は出てきています。そして、化学変化は「分解」と「化合」のどちらかに分けられる、なんて記述があったでしょうか。あるいは酸化銅の炭素による還元のような2物質から2物質ができる反応もを「分解」または「化合」のどちらかとして扱っていたでしょうか。私にはそうは思えないのですが。ぶっちゃけ、私は納得していません。総統閣下は「化合」の削除にお怒りのようです、という動画を作りたいくらい。ちっくしょーめー!
分解・分離との対として化合・混合があるわけですが「化合」という言葉があるから初めて、混合との概念の違いをとらえることが容易になるんだけど、めんどくさいことになりました。もっと単純なことを言うと、「化合」が駆逐されて「鉄と硫黄を結び付ける」みたいな言い方がすごくまどろっこしいというかイケてないのですが。復活してくんないかな、もう。
まあ、英語に対応する言葉がないという話も聞いたことがありますが、せっかく日本語にいい言葉があるのに、英語にないから使うな、廃止するというのはいかがなものかと。便利な言葉なんだし、tsunamiとかkaroushiとか、最近ではsenjo–kousuitaiみたいに、英語でも kago って使えばいいだけの話じゃないですか。ジャパン・アズ・ナンバーワン。欲しがりません勝つまでは。
えっ、ダメですか、そうですか。ってなんでやねん。
「化合」はいつから
さて、この前は鉄と硫黄の実験がいつからかを調べましたが、「化合」という言葉はいつから使われていたか気になります。
まずは指導要領から見ていこうか。
ここでは「化合」という言葉を検索してみる。ただし、「化合物」として登場しているものは除いた。「化合物」は現在も存在が許されているからだ。
戦後の学習指導要領
平成29年度改訂、つまり現行の学習指導要領では解説レベルですら、「化合物」はあっても、「化合」という言葉はない。
しかし、その一つ前の平成20年度改訂の指導要領ではさっそく登場しているどころか、「化合」という小単元さえある。当然の用語だったわけだ。
(4) 化学変化と原子・分子
化学変化についての観察,実験を通して,化合,分解などにおける物質の変化やその量的な関係について理解させるとともに,これらの事物・現象を原子や分子のモデルと関連付けてみる見方や考え方を養う。
イ 化学変化
(ア) 化合
2種類の物質を化合させる実験を行い,反応前とは異なる物質が生成することを見いだすとともに,化学変化は原子や分子のモデルで説明できること,化合物の組成は化学式で表されること及び化学変化は化学反応式で表されることを理解すること。
究極のゆとり、学習内容が最も削られた平成10年改訂でも化合はれっきと存在していた。
(4) 化学変化と原子,分子
化学変化についての観察,実験を通して,化合,分解などにおける物質の変化やその量的な関係について理解させるとともに,これらの事象を原子,分子のモデルと関連付けてみる見方や考え方を養う。
イ 化学変化と物質の質量
(ア) 2種類の物質を化合させる実験を行い,反応前とは異なる物質が生成することを見いだすとともに,化学変化は原子や分子のモデルで説明できること,化合物の組成は化学式で表されること及び化学反応は化学反応式で表されることを理解すること。
そしたら平成元年にあっても不思議はない。
(3) 化学変化と原子、分子
化学変化についての観察、実験を通して、化合、分解などにおける物質の変化やその量的な関係について理解させるとともに、これらの事象を原子、分子のモデルと関連付けてみる見方や考え方を養う。
ア 化学変化
(イ) 酸素以外の物質同士が化合する化学変化があることを実験から見いだすこと。
昭和52年もまた然り。
(1) 物質と反応
ウ 加熱と分解・化合
(ア) 加熱により分解する物質があること。
(イ) 加熱すると二つ以上の物質が化合することがあること。
ところが、意外なことに、いちばん詰め込み教育をやっていた昭和44年改訂版の学習指導要領には「化合物」はあるが「化合」はない。ちなみに水の「合成」でごまかしてた…。
そして、昭和33年告示では
〔第1学年〕第1分野
キ 水の成分
(ア) 水の分解と合成
a 水を電気分解して,その成分を調べる。
b 酸素と水素とで水が合成されることから化合の概念を理解し,また,化学変化と物理変化の違いを知る。
昭和26年の試案 中学校・高等学校学習指導要領 理科編(試案) では中学は「化合物」だけだが、高校化学で水素と酸素の化合が登場している。
第Ⅵ章 高等学校化学の単元とその展開例
単元Ⅰ 水や水溶液にはどんな特性があるか
学習の範囲と順序,学習活動
2.水はどんな物質からできているか。これらの物質はどんな性質をもっているか
(1) 水をつくっている水素と酸素とは,どんな割合で化合しているか
教師の実験 水の電気分解によって得た酸素と水素が化合することを実験して示す。
昭和二十二年度 の初の指導要領試案でも化合という用語は登場していた。
第三章 指導内容の一覧表
以上の各単元においてどのような事がらを指導するか,その内容(学習項目)を示してみると次のようである。
第四学年——第九学年
十五 物質の化合と分解は力・熱・光・電気等で速くなったり遅くなったりする。
つまり、戦後はほぼ一貫して「化合」という言葉は使われていたわけだ。
昭和18年
鉄と硫黄の実験 の歴史を調べた時の資料、板倉聖宣「理科教育史資料5理科教材史Ⅱ」とうほうを見てみると、中等学校教科書「物象(中学生用)2」(1943年4月)に載っていたことが分かりました。
このやうな変化を化合といひ、化合によつてできたものを化合物といふ。硫黄と鉄との化合物を硫化鉄といふ。
化合は硫黄と鉄の場合のやうに、2種類のものの間に起こるだけではなく、3種類以上のものの間でも起こる。
精密な研究によると、硫黄と鉄とが化合して硫化鉄になるとき、硫化鉄の重さは化合した硫黄の重さと鉄の重さとの和に等しい。このやうなことは、他のものの化合するときにもみられる。
明治時代
そうなると結構古いんじゃね?ということで、大正時代をすっ飛ばして明治時代にあたりをつけてみました。
明治期の教科書を調べるには
・国立教育政策研究所教育図書館明治期教科書デジタルアーカイブから明治初年の教科書
・広島大学図書館デジタルアーカイブ内の教科書コレクション
・東京学芸大学教育コンテンツアーカイブの明治期教科書のコレクション
・国立国会図書館デジタルコレクション
が、とりあえず自分が知っている情報源です。(他に明治期の教科書が充実しているデジタルアーカイブをご存じでしたらコメントなどで情報をいただけると嬉しいです)
これらを駆使して化学の教科書でできるだけ古めのやつを調べてみました。
Giraldin, Jean Pierre Louis, 桂川甫策,石橋八郎訳並註の化学入門 後編巻之,一貫堂(1870) は、水素と酸素から水ができるという事例の説明でも、「化合」という言葉は登場しなかったので、「化合」という言葉が定着していなかったことがうかがわれます。
ちなみにこちらはからです。
また化学闡要. 卷之1 / 達毘篤沕兒斯原著 ; 土岐頼徳譯述 — 鈴木喜右衛門, 1872- 【公開】では、化合物の意味の言葉として「抱合物(抱は旧字体)」とあったので、この本でも化合という言葉は採用されていなかった(まだ化合という用語はできていなかった?)ようです。
「化合」という言葉が確認できたので最も古いのは明治6年(1873年)の化学初階和解 一で、17/76ページなどに登場しています(が読みにくい)。
化學日記. 初篇1 / リッテル著 ; 文部省訳 — 文部省, 1874.5 【公開】で、1巻の第1回、つまり初っ端に登場しているだけでなく、混合と化合の違いをわれらが鉄と硫黄の反応で例示されていた!
ということで、これらの教科書による「化合」の記述の有無から、「化合」という言葉は1870年代に入ったころに登場したのではないかな、というのが今の自分の中でのファイナルアンサーです。
なお、化學初歩 : 全 / 加藤宗甫譯 ; 桂川甫策閲 — [一貫堂], [明治年間] は正確な発行年が不明、しかも「化合」に関する記述なし。だけど、7/28ページにABCを 亜ー彼ー泄 と漢字とフリガナで表記していたのには、ここに記録せずにはいられない!


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