1416 アクティブ・ラーニング狂走曲 第4楽章 守破離

旧ブログで 2017/03/18更新

武道とか、茶道・華道のような「道」を極めるには、まず、基本の「型」を覚えて、使いこなせることが大切です。守破離の「守」の段階です。ここでは、たとえ「型」に疑問を持ったり、工夫できそうな点が思いついても、「型」通りにやることが要求されます。洗練されて仕上がった「型」を、入門してから間もない素人に毛が生えた程度の者が下手にアレンジしたりすると、かえって上達が遠のいてしまうのですね。

「破」や「離」は「守」が完璧に難なくこなせて、もう当然のように慣れまくってから、「守」を続けているうちに、何かに気づき、自分なりの「破」、さらには「離」となっていくのでしょう。その時間はその道に入った人でも1年や2年じゃ足りないというのが一般的なのでしょう。いいからまじめに「守」を続けなさい、ということですね。

でも、その「道」自体が微妙なものだったら…。

今回も特定を避けるため、フィクションというか、一部わざと設定を変えてあります。というか、いくつかのAL関係の授業研究会で出てきたことを適当につなげて、さらに多少大げさにして、一つの話として再構成しています。

全国的な理科教育の研究組織の発表会。分科会で授業実践の発表が次々に行われます。その分科会のテーマは「アクティブ・ラーニング」

そこでの発表は、授業の始めから終わりまで、ずっと班活動。問題演習などで知識や技能を活用するところだけでなく、知識を習得するところや概念形成までもが班活動という授業の発表が多かったです。というかほとんどそれでした。

アクティブ・ラーニング=班活動  という誤解がはびこっていないか?

という素朴で本質的な疑問はさておき、
ありがちな授業パターンが班活動で問題を解き、他の班に向けて問題をつくっていきます。もっとも、実際にそれを行うのは、班の中でもそれができる生徒のみ。できない生徒は、それを聞いて理解する、という東大を目指すような超進学校らしい完璧なシステムです。

これをさらに洗練したものが第3楽章のカリスマ先生になりそうな感じです。

で、質疑のところで、面白いつっこみ質問がありました。
『知識や概念のイメージをつかむ場面では教え込む場面も必要だと思いますが、それをあえてアクティブ・ラーニングでやる意味はどこにあるんですか?わからない生徒はそのような場面で、生徒は思考しているのですか?こどもの反応を教えてください』

どうもこの質問に対して「生徒の思考?こどもの反応?その発想はなかったわ」みたいで回答の趣旨は「今までは生徒主体でない授業が多かったので、できる生徒だけが活動する班活動にして教師の授業改善のためにやっている(だから生徒が思考してるとかこどもの反応とか知らねーよ)」というようなことでした。

それに対し、班活動という美名のもとに教師がすべきことまで生徒に丸投げしてどこが授業”改善”なんだ?と追い詰めたくなりますが、止めてくれカカシ、そのいい授業をするために研究をするのではなく、いい研究をするために授業をしている連中に効くので、人道的観点から控えるべきでしょう。

どうしてこうなったのでしょうか。

発表者の方々はとにかく流行りのアクティブラーニングで授業を改善することによって、さまざまな課題を一気に解決しよう、としているように私には見えます。

私が大学生教えている理科教育法では、ICT活用、ゲストティーチャーなど外部の活用、言語活動の充実、そしてアクティブラーニングなどを御多分に漏れず扱っていますが、この手の話題は結局どれも結論が同じになってしまいます。その結論は、こうです。

その「手段」をとることは、その授業の目標を達成するにあたって、どのように有効に作用するのか?そこを意識しましょう。

これは暗に、そのやり方が有効に作用しなければ普通の授業でいいということ、そしてそれ以上に授業の「目的」は他にあり、アクティブラーニングなどはしょせん「手段」に過ぎない、ということを示唆しています。

それを具体的にこの授業に当てはめたのが先ほどのツッコミ質問です。(一応言っておきますが、この質問をしたのは私ではありません)

『知識や概念のイメージをつかむ場面では教え込む場面も必要だと思いますが、それをあえてアクティブ・ラーニングでやる意味はどこにあるんですか?』

アクティブ・ラーニングよりも教え込みの方が有効ならば、教え込みの手段をとるのが正解だと、私は思います。

でも、発表した先生方は、自らの授業を改善するために、アクティブラーニング道の守破離の「守」の段階をまじめにやっているのだと思います。「破」のレベルまで行くには、短く見積もっても数年はかかるでしょうから、まだまだこの状態は続くかと思います。

きっとここで発表した先生も、このような質問にもめげず、ひょっとしたら彼ら自身も疑問に思いながら、それでも「型」を守ることが大切なので、「守」を続けていくような気がします。結局、従来のやり方も、アクティブラーニング(班活動)も、長いこと理科教育を悩ませているある課題を解決してくれていないからです。その課題は…

理科を不得手とする生徒を、思考して、活動に参加させる(本当の意味でアクティブにラーニングさせる)にはどのようにすればよいのだろうか。

この課題を解決しないと、真のアクティブラーニングにはならないのではないかと思います。

※個人の感想です

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